平将門の乱 何があってもダチは見捨てねぇよ たとえ朝敵の汚名を着ようともな 何故かって? 俺が平の小次郎将門だからだ

上(かみ)下(しも)共ども、私欲に塗(まみ)れているのなら、坂東はこの将門がもらう 文句があるか!

 

平将門(たいらのまさかど)の乱

 平将門の乱は、突発的に始まった無計画な乱であったと筆者は考えている。

 平将門の乱は、平安時代中期、天慶(てんぎょう)二年(939年)に平将門関八州国府を襲撃掌握し、自らを「新皇(しんのう)」と称した乱。

 また、時を同じく承平(じょうへい)六年(936)伊予国愛媛県)日振島(ひぶりじま)を根拠地として瀬戸内海全域を支配下に治めた元伊予掾(じょう)(伊予国府三等官)であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱と合わせて「承平天慶の乱」と呼ぶ。

 昨今のNHK大河ドラマにはとんとご無沙汰しているが、筆者がまだ小学生の頃、夢中になって見た大河ドラマがあった。それが、海音寺潮五郎氏原作の「風と雲と虹と」である。原作の素晴らしさは当然ながらとして、平将門役の故 加藤剛氏の精悍な武者振りと藤原純友役の故 緒方拳氏の老獪な策士振りが脳裏に今も焼きついている。叛逆者という言葉が放つロマンティシズムとピカレスクロマンに子供ながらもカタルシスを覚えた。


 名場面をご紹介したい。御通家には何を今更だが…


 シナリオ風でいってみる。


 近江国比叡山山頂、将門(加藤剛)と純友(緒形拳)が遥か下に平安京を見下ろしている。


将門「純友殿、都とはかように小さきものでありましたか」


 久しぶりに体を使い、山を登ってきた将門の額に汗が流れ、顔は紅潮して爽快気でもある。


純友「都だけではないぞ、そこに巣食う貴族役人共の小さき事、救い難いと思わぬか?のぅ将門 フッ…」


 薄笑いを浮かべる純友だか、眼だけはわらってはいない。


将門「ところで、伊予にはいつ発たれるおつもりか?」


純友「伊予掾など…やる役務などない。旨い魚でもを喰いながらゆるゆると行く。将門はいつ坂東へ…」


将門「この度の一族同士の諍いの裁定が出るまであとしばらくはかかるでありましょう」


 眼下の都を睨み、怒りの色を目に込める将門。それに目をやり、低く剛毅な口調で語り始める純友


純友「将門の殿、貴公は桓武の帝(みかど)五世の孫、この純友は大織冠(たいしょくかん)藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公の子孫だ。世が乱れ、民草が立ち行かなくなるなら、お主は帝となれ!わしは関白と成りて世の乱れを正さん」


将門「貴方は西海で、私は坂東で」


 二人は高らかに哄笑し肩を組み比叡山山頂を後にする


 とまぁこんな感じである。だが、このように二人が連携していた歴史的事実は全くない。


 一人は西海の大海原で、一人は関東の曠野で、示し合わせて腐り切った朝廷に鉄槌を下す。


この上なく痛快な出来事なのだが…。


 平将門とはいかなる人物であったのか?


 平将門は、桓武天皇五世の子孫にあたる。系図は、桓武の曾孫(ひ孫)の高望王が、平姓を下賜され臣籍降下し、坂東(関東)の上総介(千葉県南部の二等官)に任命され着任。その平高望の三男、平良将の嫡子として将門は誕生した。

 生年は延喜三年(903)説が有力、没年は天慶三年(940)とわかっているので、延喜三年生まれなら享年三十七歳。

 将門の特質は、なんと云っても戦が滅法強い。特に、寡勢で多勢を一気に駆逐する短期一点突破型の戦法は比類無く強い。誠に優れた現場指揮官、戦術家である。後述するが、惜しむらくは戦略家としては並の下、もしくは下の上あたりであろうか。

 そして、平将門を語る時、外してはならないのは、義侠心であろう。

 己を頼ってきた者に対しては無条件に庇護する、

 卑怯を嫌い、無道とは断固戦う。

 反抗する者には容赦ないが、追い詰めて勝敗が決した敵には逃げ道を残す。

 これらの美点の数々によって将門伝説は、今日まで関東に根強く残ったのである。ちなみに、千代田区神田明神三之宮は平将門命(みこと)である。将門は死してなお、坂東民草の守り神である。


 神田明神に関して、面白い話がある。

 神田明神氏子は、決して成田山新勝寺には詣でない。


 それはなぜか?

 それは…

ご自身でお調べくださいませ。


 少し話題を代えてみたい。

 そもそも、武士とは何なのか?その起源は?


敢えて言おう!


武士とは反社であると…


(パクリました。すいません)

 

 

 

 

 古代において、大和朝廷を構成する天皇、皇族、豪族等は血で血を洗う権力闘争を自らの手で行うのを厭わなかった。

 ところが、平安時代に入るとかつての天皇や皇族、豪族達は貴族化し文官の役割しか果たさなくなる。武官の汚れ仕事は人任せにする。地方の荘園の警護をさせている在地領主を呼び寄せ、自らの警護や雑用、時には血なまぐさい役務に使役する。

 侍(さむらい)は、動詞の侍らふ(さむらふ)の人用名詞で、本来の意味の一つに身分の高い人や敬うべき人(高僧や貴族)のそばに控える者を指す。

 かたや、地方では、藤原氏(特に藤原北家)の専横が著しい都での立身を諦め、地方へ下り土地を開墾し営農在地地主になる下級貴族や臣籍降下した皇族の子孫が増えた。

 当然、中には他人の領地を横領する不逞の輩も現れる。そんな輩から自領を守るため武装する。つまり、武装した農民一族集団が現れる。そして、自領の権利を公式に認知してもらうため、皇族や有力貴族に寄進する。これが地方武士の起こりである。はたして、中央、地方ともにやっている所業が、反社のシノギに似てはいないだろうか?

 都では、大親分(藤原氏天皇上皇)のボディガードやパシリ、時には荒事を受け持つ。

 地方では、自分のシマ(領地)を広げ、カチコミ(横領)には体を張ってシマを守り、時には、敵の親分(領主)のタマ(首)を取り、シマを拡大していく。シマからのアガリ(収益)を大親分(藤原氏天皇または上皇)に上納してカンバン(地位と名声)を上げる。

 同じ構図に思える。どうだろうか?

 最終的には、大親分を武力でねじ伏せ、神輿の担ぎ替えしたのが鎌倉幕府の成立である。 


 本題の平将門の乱の経緯に戻ろう。

平将門の乱の時間経過

 平将門の乱は、藤原純友の乱と合わせて「承平天慶の乱」と称されるが、本格的な叛乱行為は、常陸茨城県国府を襲撃し、「新皇」即位を宣言した天慶二年(939)に始まる。

 しかし、承平五年(935)から続く伯父・平国香(たいらのくにか)等の一族間の所領問題を原因とする坂東騒乱が前段としてある。一族間の私闘だった坂東騒乱を、後年になって朝廷は叛乱行為と見做し「承平天慶の乱」とした。

 もっとも、坂東騒乱において将門が、坂東で得た武名と名声は、後の叛乱行為の強力な後押しになったのは間違いない。

 

前段

●承平五年(935)二月

 将門が都において関白藤原忠平に出仕しているあいだに、亡父・平良将(よしまさ)の所領を横領した伯父・平国香を始めとする一族、また、将門の妻を巡り、源護(みなもとのまもる)一族との騒乱に突入した。 この時の戦いで伯父平国香は敗死した。


●承平六年(936)八月

 国香の弟・平良兼(よしかね)、平良正(よしまさ)と国香の嫡男・平貞盛(将門にとっては従兄弟)連合軍との合戦が勃発する。将門軍の圧勝となる。

 ここで登場した平貞盛の名を記憶してもらいたい。


●承平六年(936)九月

 朝廷の召喚命令に従い上洛、紛争の弁明をした。


●承平七年(937)四月

 微罪として放免され帰郷する。


●承平七年(937)八月

 憤懣やるかたない良兼、良正、貞盛は、始祖・高望王と将門の父・良将の木像を推戴する奇策を採って再戦に臨んだ。さすがの将門も一敗地に塗れたが、最終的には良兼等を筑波山に追い込んだ。


●承平八年(938)二月

 追い込まれ坂東を変転とする平貞盛は、京に逃亡しようとしたが、信濃国(長野県)千曲で将門軍に追いつかれ敗退。平貞盛は身一つになりながも都に帰還した。


●天慶二年(939年)二月

 武蔵国(埼玉県)国府に着任した権守(準一等官)興世王(おきよおう)、武蔵介(二等官)源経基(みなもとのつねもと)と足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)の間で紛争が勃発した。将門が調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝は和解したが、武芝軍がにわかに源経基を急襲し、経基は京に逃亡した。

 ここで登場した源経基の名を記憶してもらいたい。


●天慶二年(939年)

 常陸国の豪族・藤原玄明(はるあき、別名鹿島玄明)が、租税を納めず、公物を奪取して国府から追捕されていた。玄明は日頃から私淑し、厚誼を交わしていた将門を頼り身を寄せた。常陸介藤原維幾(ふじわらのこれちか)は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。

 

後段

●天慶二年(939)十一月

 玄明をめぐる対立が更に深まり、将門軍千人対常陸国府軍三千人で戦端が開かれた。

 将門軍が圧勝し、常陸茨城県国府の藤原惟幾を追い落とし、国府が保持する印綬(いんじゅ、官印)を焼き払った。明確な叛乱行為である。

 その後は、参謀役・興世王の進言「一国盗るも誅、八カ国盗りも同じく誅也」毒を喰らわば皿までである。関八州にあたる

下野国(栃木県)

上野国群馬県

武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県東部)

下総国(千葉県北部)

上総国(千葉県南部)

安房国(房総半島最南部)

相模国(神奈川県西部)

伊豆国静岡県東部・伊豆半島全域)の国府を次々と襲撃し、印綬を焼き払った。


●天慶二年(939)十二月、

 神懸かりとなった巫女の宣託により「新皇」と称する。これは、側近による演出であったと筆者は考える。


●天慶三(940)年一月

 将門追討が発せられる。

 平貞盛が、下野国(栃木県)の有力豪族・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と合力し、兵四千人を集めた。ここで登場した藤原秀郷の名を記憶してもらいたい


●天慶三年(940)二月十四日

 貞盛・秀郷連合軍は、将門の本拠石井(茨城県坂東市)に攻め寄せた。将門軍は、形勢が悪く僅か四百人で陣をしいた。

 その日は、春一番が吹き荒れ将門軍は追風を背負い、矢戦を優位に運び、貞盛、秀郷連合軍を撃破した。しかし、将門軍引き上げの際、急に風向きが変わり北風になると、風を背負って勢いを得た連合軍が反撃、将門は自ら先陣にて奮戦するも、流れ矢が将門の眉間に当たり討死した。

 以上が、平将門の乱の一部始終である、

 ちなみに、将門敗死の一年半後の天慶四年(941)六月、伊予国日振島にて藤原純友が誅殺される。

 

私見


 平将門の乱で考えられる事が二つあると思う。

 一つは、乱の一部始終を見ると、将門の乱が偶発的に勃発し、展開し、終息したかがよくわかる。

 要は、素行は悪いが憎めないトモダチ(藤原玄明)を庇うため国府に威しをかけた。 まさか、この俺様に反抗するまいと思っていたら、国府に挑みかかられた。退くに退けずに闘ったら、勢いで国府を占領してしまった。

 参謀(興世王)が毒を喰らわば…というから、民草を顧みない無道な朝廷共が相手ならば坂東八カ国をいただいた。

 戦勝の打上げをみんなでしてたら、舞妓に火雷天神菅原道真)が降りて「新皇」になれと云うからなった。

 俺に追われて逃げ回っていた従兄弟の太郎(平貞盛)がいつの間にか下野国の田原の藤太(藤原秀郷)を味方につけて挑戦してきた。

 ちょっとばかり、不利だったが、蹴散らしてやった。勇躍、引き揚げようとしたら背後を襲われたが、俺様がまた先陣切って闘えばどうってことはない。

 あれ?!眼の前に矢がっ!

 ブスッ!!

 

将門に、いや、将門サイドに、この叛乱を政略と戦略で俯瞰し得た人物は果たしていたのだろうか? いなかった。将門の武勇とカリスマ性に依存しただけの行き当たりばったりの叛乱であった。

 もし、いたとしたならば、政略的に占領した八カ国の統治方法を従前と全く同じにしないだろう。叛乱とは革命であり、革命と革新である。従前通りなら叛乱など必要ない。

 戦略的には、将門政権の藩屏(はんぺい・守りのこと)とすべき関八州の有力豪族に何ら調略の手を伸ばしていない。ひとえに、自らの武力を恃(たの)むところ大からに他ならない、

 新皇僭称後、表敬に来た藤原秀郷に不遜な態度で接した結果、むざむざと敵に回してしまった。

 二つ目は、武士の力を朝廷に見せつけた。

 これこそが平将門の乱の意義其の物であり、後世に多大なる影響を与えた。

 将門誅滅の為、公卿参議藤原忠文征東大将軍に任命されたのが天慶三年一月十九日、将門討滅が翌月十四日。一ヶ月かけても征東軍は間に合っていない。代わって、平貞盛やとくに藤原秀郷の戦功により将門は誅殺された。

 これまで犬のように蔑んできた武士の力を頼まねば賊徒を平らげられない。

 また、藤原純友の乱においても、坂東から都に逃げ果せた源経基が「山陽道追捕使」の副将に任命された。

 朝廷は、武士の力を借りなければ、国内の治安を保てないほど統治機構が老朽化してしまった。

 前記の途中で記憶していただきたいとお願いした三人についてご説明してみたい。


平貞盛

・源基経

藤原秀郷


 この三人には共通点がある。もちろん、「承平天慶の乱」鎮圧の功労者達で、乱後に朝廷から過分な領地や官位がもたらされたのは当然であるが、もっと重要な共通点がある。

 日本史に、造詣が深い方なら直ぐにピンと来るかもしれないが…


 解答は、

 彼等の子孫が、後世において天下覇権の勝者であったり、敗者であった。


平貞盛の六世の孫が、平氏の棟梁にして武家初の太政大臣平清盛である。


源基経の八世の孫が、源氏の棟梁にして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝である。


藤原秀郷の五世の孫が、奥州藤原氏初代藤原清衡であり、八世の孫が、源義経を討ち、源頼朝に討滅され奥州藤原氏の最期の御館(みたち)となった藤原泰衡である。

 平安末から鎌倉初期の日本史の主役達の先祖等は、平将門の乱を足掛かりとして武家台頭の先駆けとなったのである。これこそが、平将門の乱の本当の意義なのかもしれない。


 泉下の将門公におかれましては、何卒、この一事を以てご留飲をお下げくださいまして、民衆の守り神とお成下さいますよう伏してお願い申し上げます。