叛乱 結城合戦 第15話

 かすみは鷹丸の頬に唇を寄せ、次々と涙を吸い取った。

「人の温もりの味がする。鷹丸、私も初めてだよ。ありがとうな」

 

 

 

 

 


承前


香取へ

 鷹丸とかすみは曳間宿の外れの空堀を飛び越えようとしていた。

 鷹丸が先に飛び、かすみが鷹丸を目がけて飛んだ。弾みで鷹丸とかすみは一緒になって堤下まで転がった。立ち上がった鷹丸は追手の有無を確かめながら、

「平気か」

 返事代わりにかすみは素早く立ち上がってみせた。

 かすみの背を汚す土を払ってやりながら鷹丸が、

「陽が中天前に天竜川沿いに山に入ろう」と云い、

 今度は鷹丸の髪に付いた枯草を摘みとりながら、

「うん」

 小さくかすみが頷いた。

 人目につく東海道を避け、遠回りだが天竜川河畔で北に折れ、信濃国伊那谷(いなだに・現在の長野県飯田市付近)を抜け、東山道(現在の中央道)に入るつもりだった。信濃(長野県)から甲斐(山梨県)、武蔵(埼玉県)を抜けて下総(千葉県北部)香取へ向かう途を二人は選んだ。

 今朝、曳間を後にしたかすみが口にした地名は香取だった。過去を捨てたかすみの行き先は、更なる過去の地、記憶にも定かでない父母の地、香取だった。鷹丸は、かすみが望むならどこまでも行くと腹を決めていた。

 鍛えられて育った二人の脚ならば三日後には香取に着く筈だ。


 天竜川を遡上する二人は、中天前に瀬尻ノ瀧を目前にする所まで来ていた。

「山中に入って道も険しくなってきたな。これからは道も無くなり谷を這い上がる。ついて来いな」

「全然平気だよ。息切れするのも楽しくて楽しくて。鷹丸、さっ、行こ」

 無邪気に出されたかすみの手に自分の手を重ねかけた鷹丸だった。しかし、子供の時分より胸の内に秘めてきたかすみへの有り余る慕情が溢れ気後れしてしまった。

「何してんの。早く手をつないでよ。どんどん道が険しくなるよ」

「よしわかった、しっかり握って離すなよ」

 鷹丸が出した手をかすみはなんの躊躇(ためら)いも無く強く握った。そのまま二人は瀧を迂回する急な坂を上り始めた。


伊那谷

 遠州と信州の国境(くにざかい)の谷道は思いの外に険しかった。今日の目的地の伊那谷に着いたのは戌(いぬ)の刻(午後八時)を過ぎていた。

 途中で実成りの良い木通(あけび)を採り、沢で手掴みした山女魚(やまめ)を夕餉にするつもりだった。 宿は人里から離れた廃屋を見つけた。

 裏戸を潰して囲炉裏の焚きつけにした。

 鷹丸が枝刺しにした山女魚を火の端に並べた。やがて滴る脂の香ばしい匂いが辺りを埋めた。一方、かすみは木通の実を裂き、食べ易くした。乳白色の実が覗ける切れ目から秋山の生気を含んだ芳しい香りもまた、二人の鼻腔をくすぐった。

 寡黙に食べる習いが染みついた二人はただ手と口だけを使った。五尾焼いた山女魚の最後の一尾を鷹丸はかすみに譲った。枝から山女魚を抜き、かすみはそれを半身に分け鷹丸に戻した。

 それもまた、振舞われる量に限りがある糧を皆で分合わなければ生きてこられなかった子供等の悲しい習性(さが)であった。食べている間もその後も会話は無かった。喰ったら寝るのみだった。乱破の日常は必要最小限の行為に集約されている。そこに人らしい安らぎや潤いなどが入り込む余地は絶無だった。筵床(むしろゆか)の上に横になり、獣の毛皮を被る。寝るにしても二人がおよそ一刻(二時間)ずつ交代であった。先にかすみが寝る。鷹丸は土間に立ち廃屋の外に注意を払った。

 

 


「うっ…さわるな…ころ…すぞ」

 かすみが呻いた。

 鷹丸がギョッとしてかすみを返り見た。

「寝言か…」

 なんと悲しくも恐ろしい寝言だろうか…。これからは誰にも虐げられず、意に沿わぬ男に抱かれる怖れも無く、誰かを殺す務めもない筈なのに…。かすみの心は未だ不毛の地を抜け出せないでいる。鷹丸は、かすみと二人して一日でも早く安息の地へ辿り着きたかった。

 寝言を云いながら寝返ったかすみの肩が毛皮から外れてしまっていた。

 外を一瞥した鷹丸はかすみの肩の毛皮を直した。

 直す拍子にかすみの肩に触れた。

「えっ…なんだ」

 今、かすみの躰から肩を通して鷹丸の指先、ついには鷹丸の躰に至った感覚…今まで誰とも感じた事のない感覚。

 幼い頃より兄妹同然に育ってきた二人だ。取っ組み合いの喧嘩もしたし、病になればお互いに痛みを撫で擦りあった。だが、過去に感じたのと全く違う、言葉で表すなら、二つの魂の間に不断の絆が結ばれたと表すべきだろうか…

(そっか、俺達はこれからは夫婦(めおと)になるんだ)

 そう思った途端、鷹丸の躰の芯がカッと熱くなった。眠っているかすみの腰に腕を回し抱き上げた。

「どした、鷹…丸」

 驚いて目覚めたかすみの唇に口を寄せた。一度は見開かれたかすみの瞼は、ゆっくりと閉じられた。

鷹丸の唇がかすみのそれに触れた。芯が更に燃え立った。

鷹丸の躰がかすみに覆い被さった。襟から入れた指先に豊かなふくらみを感じた。

「やめろ…」

 かすみが力無く云った。だが、鷹丸はもっと深くわけ入り、強く揉みしだいた。襟から手を抜き、帯に手をかけた。

 それまで成すがままだったかすみの躰に強い力がこもった。

「ごめん。できない…鷹丸、できないよ」

 云うなり鷹丸の躰をかすみは突き飛ばした。鷹丸が筵の上を転がり尻をついた。

「私、男女の事は務めだった。嫌悪だった。情愛で抱かれるなんて無かった」

「お前に惚れている。いままでの男達とは違う、全然違う。わかるだろ」

「そんなのわかってるよ。お前が大好きだ、強く抱かれたい。でも…でも…やはり無理だよ。怖いんだよ」

 鷹丸は尻もちのままかすみの呻吟(しんぎん)を術も無く聴いていた。

 聴きながら鷹丸の両眼から滂沱(ぼうだ)たる涙が滴った。

「なんだこれは…俺の目から流れる水…、なんだこの水は…」

 鷹丸は生まれて初めて泣いた。

 人らしい感情の波立ちは気を弱くするとの修練を受けて育った子供は、泣くことも笑うことも忘れてしまうのだった。

「教えてくれ…かすみ、頼む…この水はなんだ」

 問いに答えず、かすみは鷹丸の頬に唇を寄せ、次々と涙を吸い取った

「人の温もりの味がする。鷹丸、私も初めてだよ。ありがとうな」

 

 翌朝まで二人はただ抱(いだ)き合って眠った。少年少女に戻ってただ眠った。

 先に目が覚めたのは鷹丸だった。鷹丸の気配でかすみも目覚めた。

「おはよう」ぎこちなく鷹丸が云った。

「痛っ」

 かすみが力任せに鷹丸の鼻を齧った。

「おまえは犬か猫か…」

 続けて囓ろうと首を伸ばしてきたかすみの鼻に鷹丸が吸い付いた。

 ひとしきり転げ回って子犬か子猫のように二人は戯れあった。

 うつ伏せになったかすみに馬乗りになった鷹丸が

「もう参ったと云え、なら、許してやる」

 「重いじゃねぇか、降りろ馬鹿。それよか、腹減った、なんか食わせろ」

 手足をバタつかせてかすみが毒づいた。

「沢に降りて山女魚か岩魚を獲ってくる。火を熾(おこ)して待ってろな」

「なら私は里に行って菜か芋を分けてもらってくる」

 少し険しい顔を浮かべた鷹丸が、

「里には降りるな。どこで足がつくかわからないからな。木通か山芋があれば採ってくる。里はだめだ」

「わかったよ、大人しく待ってる。お前も気をつけてな」

「大物を捕まえてくる。腹すかせて待ってろ、じゃぁな」

 頭の上で手をヒラヒラ廻して鷹丸が藪に消えた。

 それを見送ったかすみは小屋の内を物色し始めた。探し物の竹籠はすぐに見つかった。そして、襟首の糸を解き、そこに縫い込んであった僅かな銭を出した。

「鷹丸はあぁ云ったけど、芋くらい食べさせてやりたい。男だからうんと腹が空くよね」

 銭との交換なら芋くらい手に入れられるとかすみは踏んだのだった。竹籠を抱え里への坂道をかすみは下って行った。


早魚は当方にて預かった

返して欲しくば、明朝卯の刻、中田島まで来られたし

必ずや密書所持の上、香取玄明同道の事


結城玄蕃友成殿

          才賀丸


 魚を獲って帰ってきた鷹丸が見つけたのは、柱に打ち付けられた半紙だった。

次回ヘ続く

 

中田島とは、

中田島砂丘(なかたじまさきゅう)は、静岡県浜松市の南部、天竜川以西に位置し、南北約0.6km、東西約4kmに渡って広がる砂丘遠州浜(遠州砂丘)の一部。日本三大砂丘の一つとして有名。その他2ヶ所は、鳥取砂丘鳥取県)と吹上浜(鹿児島県)。

 

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

 

叛乱 結城合戦 第14話

「あなたに私を殺めるなどできるはずもない」

 微かな笑みを浮かべてかすみは出て行った。まさに拈華微笑(ねんげみしょう)であった。

 

 

 


 承前


「いきなり何を云う…妹などと、狂ってしまったか」

 かすみとて逃げ出すのを忘れていた。

「この護り袋が何よりの証。まぁ聞け、かすみ」

「かすみなどではない。名前などもう捨てた」 

 小一郎がかすみの縛りを切りながら、

「かすみ殿、あの乱破に帰参するなり、このまま兄重蔵(玄明)の元にいるなりすきにせよ。ただ重蔵の話を聞いてから決めて遅くあるまい」

 幽(かす)かな記憶を手繰り寄せるかのようにぼつぼつと玄明が語り始めた。

「俺とお前の父・香取玄信(はるのぶ)は、香取神宮宮司である香取下総介(しもうさのすけ)様の眷属(けんぞく・一族と同意)だった。母は香取之大神にお仕えする巫女の一人で秋乃(あきの)といった」

 玄明が乾いた咳をした。

「水でも飲むか」

「ああ、悪いな。頼む」

 小一郎がまた井戸端に水を汲みに行った。玄明は続けた。

「お前の誕生を寿(ことほ)がれた下総介様が晴着にせよと神紋を染め抜いた金襴緞子を下賜された。母はその反物でお前の産着と初宮の晴着を仕立てた。その余りで俺とお前の護り袋をこしらえた」

「もういい。くだらない講釈など聴きたくない」

 それでもかすみは逃げない。

「まぁもう少し聴けよ。つづけるぞ。香取之宮は数ある寺社仏閣の中でも、元旦の払暁(ふつぎょう)、沐浴潔斎なされた帝が、四方拝で遥拝奉る格調高き社の一つ。さすがにその神領を侵す不埒な者はいなかった。だがな、香取神宮神領のある下総(千葉県北部)も他国同様に騒乱の兆しが見え始めた」

 小一郎が戻り、差し出された椀の水を玄明は飲み、残り半分をかすみに勧めた。かすみは戸惑いと怒りが浮かんだ眼で拒絶した。椀はそのままかすみの前に置かれた。

下総国守護 元佐倉城城主の千葉胤直(たねなお)が神領に侵入してきたのは、俺が十一、お前は五つだった。父は討ち死、母も乱戦で死んだ。生き残れた俺は、お前を捜して焼け野原を彷徨った。頼りはこの護り袋だけさ……でも、兄ちゃんは…、かすみを捜してだしてやれなかった…ごめんな」

「……」

 かすみは無言で護り袋を掌で包んでいた。

「…そのあと俺は下総介様に神人としてお仕えしたが、いつの間にか流れ乱破になってしまった。今は筑波山神社の配下で結城方に与している。……自棄(やけ)になって人には云えねぇ所業もたくさんした。お前と同じよ。ただな、この護り袋だけは手放せなかった。それも同じだろ、お前も…」

「………」

「…………」

「いきなりで信じられないのもわかるが、お前の兄貴は信じられる男だ」

 沈黙を断つため小一郎が云った。

「もう才賀丸の手下はやめろ。俺と一緒に行こう」

 かすみの両肩を強く揺すりながら玄明は云った。

 揺すられるがままでかすみは玄明の顔を見つめた。そして、かげろうのような寄る辺の無さで立ち上がり、

「何をいまさら…もう遅いよ…」

 そう呟き、座敷を出ていこうとするかすみの背に玄明は叫んだ。

「なにが遅いのだ、俺はお前を才賀丸の元には返さない。力ずくでもだ」

 玄明が苦無(くない・小刀)を抜いた。すかさず小一郎が二人の間に割って入り、

「ばか、止めろ。兄妹がやっと会えたのに…」

「こいつが返ると言うなら、俺は本気だ。あんな地獄に返すくらいなら…俺が…ひと思いに…」

 それでもかすみは歩みを止めず、土間に降りた。かすみはスッと振り返った。

「あなたに私を殺めるなどできるはずもない」

 微かな笑みを浮かべてかすみは出て行った。まさに拈華微笑(ねんげみしょう)であった。

 

 

曳間宿(現浜松市) 甲江山鴨江寺の庫裏


 甲江山鴨江寺(こうえさんかもえじ)は、奈良朝天平年間、行基大徳によって開山された遠州では指折りの古刹である。

 寺宝として伝来されてきた逸品が多数あり、中でも古文書には特筆すべき品が多い。著名な品を以下に列記すると、

後醍醐天皇綸旨(元弘3年7月15日)

豊臣秀吉抄掠禁制(天正17年1月2日)

徳川家康半物(天正14年9月7日)

他に各地大名の発令した古文書が多数残っている。これはこの地が古より交通の要衝で人や物がいかに行き交ったかを物語る。


 才賀丸のような賤しき乱破にしてもこのような大寺を宿所にできるのは、関東管領上杉家の下し文の力であろう。衰えたとはいえ関東管領の威光は大といえた。

 才賀丸は、寺男に配膳された芋粥を喰っていた。四杯目を所望したが、寺男は空になった手鍋の中を見せて庫裏(くり・寺の食堂台所)を出て行った。

 楊枝を使い、白湯を飲み干した才賀丸は満足気に欠伸をした。

「頭、聴いておられますか…早く早魚を救い出さなければ、殺されてしまいます。俺が行きます」

「大丈夫だ。玄明は早魚の命は獲らない。いや、獲れないよ」

「…何を証に…」

「儂と玄明は古い知り合いよ、時には敵、時には味方。命の取合いをしたのも一度や二度ではない。…まだ儂らが知り合って間もない若い頃よ。玄明の首にぶらさがっている護り袋をついと触ろうしたら真顔で睨んてきやがった。謂(いわ)れを尋ねると親の形見で、いまは生死も判らぬ妹との唯一の証と応えた」

「護り袋って…まさか…あの…」

 才賀丸は、両手を叩き寺男を呼び茶を望んだ。茶は高価だと断る男に才賀丸は金を握らせた。金で男は掌返しに愛想よくなり茶を入れに行った。

「そうだ、早魚の首からぶら下がっているあれよ。儂も早魚を最初に抱いた時は驚いた。玄明と同じ護り袋がぶら下がっていたんだからな」

「それを早魚には…」

「教える訳が無かろう。兄がいるなどと知ったら里心ついて使い物ならなくなるでな。ただ、玄明の妹の体を蹂躙するのはこの上もない快感よ。ましてや早魚はあの美貌、堪らなかったぜ」

 鷹丸は、これまで才賀丸に対して殺意を抱いたことが何度かはあった。芽ばえた殺意を養ってくれ技を仕込んでくれた恩義で殺意を相殺してきた。しかし、(俺はこの男を必ず将来殺すであろう)との確信が、鷹丸の内に生まれた。

「早魚も今はあんな下賤な身の上だが、元は香取大宮司の身内よ。そんな高貴な血筋の女を組み敷き、我が意の儘にする。関東動乱、さまさまよ…ところで、鎌倉に鳩はもう飛ばしたか」

「明日の夕には虎丸と龍丸、獅子丸の小頭が着くかと」

「奴らの行き先が播磨の赤松満祐のところ、詳細は書状で玄蕃(げんば・小一郎)が所持していると分かったのならもう生かしておく必要ない。眠くなった。少し寝る。何かあれば直ぐ起こせ」

 才賀丸が本堂の奥に設えられた寝所に向かった。

 鷹丸は拳を握り込み微かに震えていた。

「お茶を淹れて来ただ。あれ、旦那は…、いねぇでか…ならここへ置くでな。」

 云い置いて男は庫裏を出て行った。

「畜生、絶対に殺ってやる」

 眼の前の茶の入った椀を壁に叩きつけた。椀は木っ端微塵に砕けた。


 庫裏の板敷で熊の毛皮一枚に包まって鷹丸は横になっていた。早魚(かすみ)がどうしているか、気になって寝付けない。才賀丸は殺されないと云ったが安心はできない。すぐにもあの木賃宿に取って返したいが、もし玄明と和解していたらとんだ邪魔者になってしまう。

 懊悩する鷹丸がその物音に気付いたのは、子の刻(零時)を幾分過ぎた深夜だった。それは庫裏の引き戸を小さく叩く音だった。

 鷹丸は戸口に近寄り、

「誰だ…」

「…」

「返事をしろ」

「……、わたし…」

 閂(かんぬき)を開けるのもまどろこしかった。

「無事か…傷はないか…」

「大丈夫だ。なんでも無い」

 それでも鷹丸は早魚(かすみ)の体のあちこちを触って痛がらないか確かめた。

「傷はないようだな。よかった…本当によかった」

「大袈裟にするな」

 鷹丸は土間に降り、鷹丸は水屋を覗いた。

「腹減ってないか。えー、昆布漬けがあるくらいだな。よし、すぐ粥を炊いてやる。ちょっと待ってろ。その熊の毛皮に包まって休んでろ」

「寝てたんだろ、起こしてすまない」

 と云いながらも、早魚は熊の毛皮に包まって板敷に横になった。

「でも何故帰ってきたりしたんだ。あの乱破はお前の兄貴だろ…頭から聞いたぞ。あいつならお前を守ってくれたぞ」

 竈に焚べた薪の焔(ほのお)が紅から朱に変わった頃合で鉄鍋に米を入れ竈に乗せた。

「鷹丸…お前はそれでよかったのか…」

「エッ…」

 絶句した鷹丸は、鍋をゆっくりと掻き回していた菜箸を落としそうになった。

 振り返った鷹丸を捉えていたのは、まっすぐ鷹丸を見詰める早魚の視線だった。その視線は、早魚の瞳に映える竈の焔にも増して熱を秘めていた。

「早魚帰ったのか。兄貴はどうだった。大して嬉しくもないだろう。帰ってきたのなら丁度いい、今夜、夜伽をせい」 

 いきなり開いた戸口に立った才賀丸が下卑た眼つきで早魚の体を舐め回した。才賀丸とは目も合わせないまま頷き、早魚は畏(かしこ)まった。

「頭、お願いいたします。せめて今夜だけは…、ご勘弁下さいませ」

 鷹丸が割って入った。

 才賀丸は、ツカツカと鷹丸に歩み寄り、胴を力任せに蹴り上げた。次に息ができない鷹丸の頭を踏みつけにし、

「儂に意見などできる分際か、犬畜生のような境遇だったお前達が人がましい暮らしができるのは誰のお陰だ。えーどうなんだ早魚、返事せい」

「頭の御慈悲のお陰でございます。感謝しております。薬をすぐ調合して寝間に参上いたします。ですから、鷹丸をどうかご容赦下さい。後生でございます」

「分かればいいのだ。鷹丸、二度と儂に逆らうな。つぎは殺すぞ」


 鷹丸は井戸端で有明の月を見ていた。早魚が才賀丸の寝間に呼ばれてから我が身の不甲斐なさで一睡もできないまま月を睨んでいた。

 薄明かりが辺りをやうやう皓(しろ)くする時分、早魚は庫裏から出て来た。

 鷹丸に気付いているはずだが、何も云わず、早魚は井戸端で何度も水を浴び始めた。務めの後は必ず海に浸かる。海が無理なら井戸で水を浴びる。

「早魚…」

「私の体の穢が落ちるまで声をかけるな」

 一頻り浴びたあとだった。早魚が一糸纏わぬまま鷹丸に駆け寄り抱きついた。寒さなのか悲しみなのか早魚の体の震えが止まらない。

「前にお前が私に云ったのは本心か…一緒に逃げようと云ったな…」

「当たり前だ、お前が良いなら今すぐでも、どこまでも」

 早魚の体の震えがビタリと止んだ。早魚の唇が鷹丸の首筋に軽く触れ、そして、

「ありがとう、行こう。そう今すぐだ。鷹丸」

 鷹丸は早魚の体を精一杯の力と想いを振り絞って無言のまま抱きしめた。

「一つだけ頼みがある。お前が一緒になってくれるなら、穢れた早魚(さな)と云う名はこの場で捨てたい。これからは父母が名付けてくれた(かすみ)が私の名だ。それでよいか」

 首肯(しゅこう)の代わりに更に力を込めてかすみを鷹丸は抱きしめた。


次回ヘ続く


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

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叛乱 結城合戦 第13話

お前は早魚などではない。母はお前を「かすみ」と名付けた。美しく穏やかで万人に癒やしと糧をもたらしてくれる霞ヶ浦に因んでな。かすみ、我が妹よ

 

 

 

今回の登場人物達

結城玄蕃友成(げんばともなり)通称小一郎……結城家家臣、元猟師

つくばねの玄明(はるあき)通称重蔵……筑波山神社の神人、筑波山乱破の頭領、今は結城家に雇われている。

早魚(さな)……箱根乱破・才賀党の一員、房中術や薬術を駆使して謀略を図る女乱破。

鷹丸……箱根乱破・才賀党の一員、鷹爪拳の名手、暗殺を担当する。早魚に恋慕の情を持っている。

才賀丸(さいがまる)……箱根乱破・才賀党の頭領、関東管領山内上杉家に雇われて暗躍する。サディスト。

 

承前

「頼めるのか…俺はほんとに霞ヶ浦に帰っていいのか」

「大殿様のご下命を、今度は玄蕃様が早魚にお命じ下さいませ。必ずや果たしてお見せします」

「が…しかし…でも」

 朦朧(もうろう)しつつも、思い切れない小一郎の体を無言のまま早魚は包みこんだ。

「大殿のご下命は…ご下命…は…播磨の赤…」

「播磨の赤…なんです…はっきりとおっしゃって」

「赤松殿に…」

 まさにその刹那、早魚の後ろに黒い影が梁から落ちてきた。黒い影は、早魚を後ろから羽交い締めにした。

「狐、大した化けっぷりだな。玄蕃をこれほどに籠絡するとは」

 黒い影は玄明、手にした苦無(くない)は早魚の喉笛に押し当てられていた。

「このまま抉(えぐ)ってもいいが、俺には女子供を殺る趣味は無ぇ。玄蕃から離れな、いいな、ゆっくりとな」

 早魚の手が小一郎の背中を離れ、早魚の体がゆっくりと後ろにさがる気配を見せた。

「狐、いい分別だ。逆にお前に尋ねたいことが山程あ…、ウッ」

 羽交い締めにしていた玄明の腕(かいな)を早魚の体がスルリと抜けた。抜け出る瞬(またたき)の間に早魚の肘が玄明の鳩尾(みぞおち)を撃った。

「やるな、狐。なら、こっちも本腰にしねぇとな」

「狐と呼ぶな」

「生意気な狐だ、本気で遊んでやる。名はなんと云う」

 早魚は名を云いかけたが、言い淀み、

「名などない」

 玄明と早魚は、狭い座敷の端と端で睨みあった。

「すまぬ、重蔵。とんだ不覚を…」

 小一郎が刀を抜き青眼に構えた。だが、その眼の焦点は定まっていなかった。

「この狐の男を誑かす術は一級品だ、気にするな。それより、外にまだ狐の仲間がいる。そっちをなんとかしてくれ」

「わかった、なんとかする」

 小一郎が、三和土に出る障子を開け放つと、丸腰の鷹丸が立っていた。

「お前、得物(えもの)は…」

 小一郎はふらつきながらも、いつでも抜き上げられるよう下段に構えた。

「俺の得物はこれよ」

 手首に巻かれたなめし革からごく短い刀身が突出している。

 鷹丸は膝を折り低く身を沈め、両手を鳥の翼の如く左右に大きく広げた。さながら、狩りをする猛禽が低空滑空する姿だった。

「そいつは、唐土(もろこし・中国)の拳法の一つ鷹爪拳(ようそうけん)だ。すばしっこいぞ。後ろを取られたら喉を切られる」

 小一郎は壁を背にする位置に身を移した。

「人の心配をしてる場合か。参るぞ」

 早魚は背面に手を廻し腰に挿した小太刀を抜いた。

「ほう、乱破にしてはめずらしいな。小太刀使いか、狐、武家の出か」

 もう余計な口はきかず、早魚はまっすぐ突いて来た。狭い屋内で振りかざすと、はずみで柱や梁に刃を食い込ませてしまう恐れがある。よく鍛錬してあると玄明は感心した。玄明が一の太刀を躱す。続いてニの太刀、三の太刀もギリギリで躱しながら早魚との間合いを詰めた。とうとう、二人の距離が半間(約90センチ)にもなろうとした。更なる一突きをと構えた早魚、玄明は懐から出した黒い粉の一握りを早魚の顔面に投げた。

「なんだこれは、卑怯な真似するな」

 目の周りを擦る早魚の手や顔面が真っ黒に染まった。

「安心しろ、ただの炭の粉だ、洗えば流れる」

 素早く早魚の背後に廻った玄明が早魚を後ろ手に縛った。早魚の罵声は猿轡(さるぐつわ)で封殺された。

「こっちは片付いたぞ、そっちはどうよ」

 まだ朦朧としている小一郎は鷹丸の攻めを受け流すのが精一杯だった。それでも鋭い鷹丸の拳と短刀を確実に見切って体を捩(よじ)っていた

「才賀丸、そこにいるんだろ。この女に訊きたいことがある。訊くだけ聞いたら解き放つ。もう手を引け」

「止めよ、鷹丸」

 才賀丸がゆっくりと座敷に身を入れる。

「玄明、よくわかったな」

「誑かし薬に鷹爪拳…、こんな異端の技を使う乱破は、お前の一党しかおらん」

「帰るぞ、鷹丸。…これは土産だ、貸とく。玄明、受け取れ」

 踵を返した才賀丸が、盲撃ちで手裏剣を放った。

 咄嗟の反応で、玄明が苦無で手裏剣を弾いた。

「頭(かしら)、早魚を見捨てるのか…、俺にはできん。おのれ玄明、死ねぇ」

 と、云うが早いか、縛られた早魚を飛び越えて、玄明と早魚の間に鷹丸が割って入った。飛び込む様に玄明の脳天に向かって得物を撃ち込んだ。

「乱破が頭に背くは許されんぞ、若造…いい度胸だ」

 鷹丸の懸命の一撃を、玄明は苦無一本で軽く払った。

 刀を杖にして立っていた小一郎が、

「鷹丸とやら、止めとけ。ふらふらの俺でもわかるぞ。お前と重蔵では力量が違い過ぎる。女は必ず解き放つ。約定だ」

「かならずや助けに来る。待ってろよ早魚。お前等、早魚に指一本でも触れてみろ。この世の果てまでも追い詰めて息を止めてやる。忘れんな」

「わかったよ。指一本触れやしないよ」

 無造作に転がっている早魚を座らせた玄明が、

「狐、こいつはお前に惚れているな。しかも馬鹿がつくほどよ」

「何を戯言を」

 と吼え、また鷹爪拳の構えを取った鷹丸に才賀丸が怒鳴った。

「退け鷹丸、命令だ」

「頭…」

「退けと云ったはずだ。わからんのか」

 才賀丸は後ろも見ずに、鷹丸は玄明を睨み据えたまま木賃宿を出て行った。

 

 

「さてと…話してくれ。誰に何を頼まれた。雇い主は誰だ」

 小一郎が尋ねた。まだ薬が効いているのか頭を左右に何度か振った。

「鍛えられた乱破にそのような真似をしても口など割らぬ」

「ならどうするのだ、重蔵」

「決まっている。お前がされたと同じよ」

 早魚の背から小太刀を奪った。小太刀の目釘を外し柄を抜いた。柄の中から油紙の包みが二つ出てきた。

「これが俺を腑抜けにした薬か…」

「小一郎、すまぬが椀で水を汲んできて貰えまいか。俺は薬の調合をする。この薬は少しでも分量を間違えると人を廃人にしてしまう」

 小一郎はわかったと云い、井戸端に水を汲みに行った。

細心の注意を払っての調合を終えた玄明が、

「その若さでこれを自由自在に扱えるとは…狐、余程の修行であったろうの」

「狐はやめろ。お前などに処方ができるものか。いっそ早く殺せ」

 早魚は少しもがいたが、直ぐ大人しくなった。

「汲んできたぞ」 

 椀を受け取った玄明が少しづつ飲み、水量を調整した。先ほど混ぜた二種類の薬を椀の水に落とした。

「小一郎、狐を後ろ手に抑えてくれ。俺が狐の口を開き流し込む」

「重蔵、何もそこまでしなくともいいのではないか…」

「乱破の習性は乱破にしかわからぬよ。ここは俺の指図に従ってくれ。なに、大丈夫だ、死なないよう調合した」

「……」 

小一郎が意を決して早魚の後ろに廻り、体を抑えた。

「さあ、いいな」

 玄明は早魚の顎のつけ根を強く押さえて口を開けようとしたその時、早魚は競り上がり頭頂で小一郎の顎を突き上げた。不本意だった小一郎の抑え込む力が弱かった。

「なめるな」

 そう叫んだ早魚が後ろ手のまま逃げようとした。その出足を玄明が足で払う。二人が折り重なって座敷に転がった。玄明が早魚を組み敷く形で停まった。

「大人しくし……うっ…」

 絶句した玄明の視線の先には、早魚の胸元からこぼれでた護り袋があった。

「お前、それをどこで…」

「何を云ってる。さぁ早く殺せ」

「そんなのはどうでもいい。答えろ…お前が首から下げている護り袋、どこで手に入れた。答えろ」

「物心ついた時にはもう首から下げていた。それがどうした」

 早魚の護り袋は、色も艶もとうに抜け落ち黒く煤けてしまっていたが、香取神宮神紋の五七乃桐の透かし染めが微かでも判別できた。生地は緞子(どんす)、織りは金襴(きんらん)。一見、ボロ布に見えるが、どこにでもあるような品ではなかった。

「これをよく見ろ」

 早魚を抑え込んでいるのも思慮の外、早魚の前にどっしりと座った玄明は、自分の胸元から護り袋を出して、早魚の面前で下げた。

 生地も織りも神紋も瓜二つに似た造りだった。いや、全く同じだった。

「お前の名前は、早魚なんかじゃないぞ。母はお前に「かすみ」と名付けた。美しく穏やかで万人に癒やしと糧をもたらしてくれる霞ヶ浦に因んでな。かすみ、我が妹よ」

 玄明はそう云ったきり、中空を睨むばかりであった。

次回ヘ続く

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

 

叛乱 結城合戦 第12話

さぁ、全て申されませ。玄蕃さま。早魚が、あなた様の苦しみや悲しみの全て背負って差し上げます

 

 

 

承前  

 

 小一郎は、早魚(さな)と名乗る女の発する艶麗な色香に逡巡(たじろ)いでしまった。ましてや、女を縁取る彩光に恐怖を感じた。

「俺はどうしたというのだ。頭が可怪しくなったのか…」

 早魚の真っ白な指が小一郎の掌をそっと何度も撫でた。撫でられた掌からざわつく快感が小波(さざなみ)のように五体を巡った。小一郎の体は指一本さえ己(おの)のままにならなかった。

「玄蕃さま、お辛かったですね。まだ幼き童(わらべ)が、いかに才を愛でられたとはいえ、他家に仕えるなんて…よくぞ耐えられた。よくぞ頑張りましたね」

 小一郎の耳元で囁く早魚の声音が、湯に浸かっているような浮揚感と温もりをもたらした。

「もう頑張らなくてもよいのですよ。もうどこへも行かずともよいのですよ。このまま、早魚の懐でおやすみなさい。あなたがやらなければならぬ事はすべて、早魚がして差し上げます。何をして欲しいのですか。さあお話しくださいませ」

 座敷と三和土(たたき)を分ける障子の隙間から宿の主人が成り行きを覗いていた。背後には才賀丸と鷹丸がいた。

「旦那、ありゃすごい薬だぁ。あの侍が飯を作ってる隙を突いてほんの少し汁に混ぜただけだよ。完全に正気を失ってるでな」

「静かにしろ。喋るな」

 鷹丸が主人を叱った。にもかかわらず、

「あの薬、わしにも分けてくれよ。あれがありゃ一儲けできる。それとあの侍はどうなるんだ」

 才賀丸が刀の鯉口を主人の頭上で切った。

「わかったわかった、もう喋らねぇよ。こっちは銭さえ貰えれば文句はねぇ」

 座敷を血で汚さねぇでくれと念押しして主人は出ていった。

 座敷では早魚が仕上げにかかっていた。

「さぁ、全て申されませ。玄蕃さま。早魚が、あなた様の苦しみや悲しみの全て背負って差し上げます」

 小一郎は、童に戻ったような無垢な口調で、

「俺は…淋しくなんかないぞ…。でも、俺は侍などなりたくは無かった。ただの猟師でよかったのに…」

 掌を撫でていた早魚の手が小一郎のうなじを抱き寄せた。

霞ヶ浦に帰りましょう....全てを投げ捨てて霞ヶ浦に帰りましょう。玄蕃さま」

「でも、俺は…、大殿から御下命を受けたんだよ…。とっても大事なご用なんだ」

「ご下命は玄蕃さまに替わって早魚が果たしますから…教えてくださいませな」

 小一郎の耳元で吐息混じりに早魚が囁いた。

(落ちた)と才賀丸も鷹丸も確信した。

 

 

 早魚(さな)の薬術によって、小一郎が誑(たぶらか)されなんとするほんの半刻(約一時間)前、玄明は煮売屋で久しぶりに酒を遣っていた。肴は豆と大根の煮染。

「宿場はずれに白狐が出たって話、知ってっか」

 玄明の脇で街道人足衆がくだを巻いていた。

「なんだいそりゃ、初耳だぜ」

「オラァ聞いたぜ、その話よ。えらい別嬪(べっぴん)な女が侍を探しているって話だよな」

 沙魚(はぜ)の塩煮を一匹丸ごと口に放り込み、濃酒(だみざけ)を飲みながら人足の一人が続けた。

「人相書きを見せて来て、こっちが知らないと応えると一瞬で消えるってよ。侍に惚れた白狐が想い人を探してるらしい」

 自分の徳利を摘んで、玄明が人足達に躙(にじ)り寄った。

「そんなにいい女かい、その女は。まぁ一杯やってくれ」

「あんたも嫌いじゃないね。見かけない顔だが、旅人(たびにん)かい」

「その女狐を今日は見かけたか」

 玄明の問いかけに、男達はお互い顔を見回し首を横に振った。

「目当ての想い人、見つけたんじゃねぇか」

「どうもありがとよ。続きはこれでやってくれ」 

 男達の前に幾許(いくばく)の金を玄明は置いた。

「あんた、どうした。どこいくね」

 男達の言葉に、徳利ごと飲み干した玄明は云った。

「決まってるさ、狐退治よ」

 

次回ヘ続く

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ。

叛乱 結城合戦 第11話

 先程は誠にありがとうございました。わたくしの名は早魚と申します。不躾とは存じましたが、も一度の御礼をと思い罷り越しました

 

 

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 遠江国静岡県西部)曳間乃宿(浜松市


 丘陵の向こうに浜名の湖(うみ)が見下ろせる祝田坂(ほうだざか)の高見に馬を止めて黄昏の湖の遠景を小一郎は見ていた。

 落陽に目を細めている小一郎に玄明が、

「懐かしい風景かい、小一郎。水のある風景はどこも似ているからな」

 結城を出立して八日、最初は玄蕃(げんば)殿、次は玄蕃、今はもう小一郎と玄明は呼ぶ。

 大層な玄蕃友成より通称の小一郎と呼ばれる方が身の丈に合ってしっくりくる。

「重蔵も霞ヶ浦香取育ちだから懐かしさはお互い様だろ」

 今の玄明は筑波山神社に身を寄せる神人(じにん)だが、元は霞ヶ浦南方に鎮座する香取神宮重代の神人だった。重蔵は玄明の通称だ。

「今夜は屋根の下で眠りたいな、重蔵」

「ああ、二夜続けての野宿は勘弁だ」

 室町中期のこの時代に現代の旅館のような至れり尽くせりの宿泊施設などない。

 この頃の旅人はどのように宿泊していたのか。

 大名や公家の上流階級は、寺社仏閣に喜捨し寝食の提供を受ける。または、在所の領主に頼み、間借りする。では、小一郎くらいの分限の武士や商人などの庶民はといえば、「木賃宿(きちんやど)」という掘立て小屋に夜具と竈があり、食料は自弁で薪代(木賃)を主人に支払う宿泊施設を利用した。木賃宿にしてもある程度の規模の宿場にしかない。結果、大概は野宿か、良くて廃屋や廃れてしまった寺社で寝ざる得ない。

 ちなみに、現代旅館の原型で食事の提供もする「旅籠(はたご)」が出現するのは、五街道が整備された江戸期である。

「一足先に曳間に行き、俺が宿を押さえておく、後から来いな、重蔵」

 小一郎が先に騎乗する。

 次いで、玄明が馬に跨った。馬首を曳間宿に続く下り坂に振り向け小一郎が先を、玄明が後に続く。

 祝田坂から曳間まではおよそ十町(約一キロ弱)ある。


「あれは…うめき声ではないか」

 曳間にあと数町と迫った時、短く繰り返される呻き声を小一郎は聞いた気がした。

「たしかに聞こえた。右の藪の奥から聞こえた」

「ちょっと様子を見てくる」

「御節介な事を…土地の若い者の乳繰り合いに決まっておる」

 玄明がこぼした。

 馬の手綱を玄明に預けて小一郎が藪に歩を進めた。

 藪に分け入った小一郎が見たのは藪の下草から伸びたあがく脚だった。口をもう塞がれてしまったのか、声はもう無くせわしない呻きが洩れている。

「下郎、止めよ」

 女に覆い被さっている男の頸筋に刀を当てた。

 猿のような身軽さで跳ね起きて

「待った待った…止めるから待ってくれよ。お侍…」

「とっととうせろ。」

 十分の距離を空けてから男が、

「俺の代わりにオメェが愉しむんだろうがよ。カッコつけてんじゃねぇ」

 当たらないよう狙って小一郎は小柄を放った。

 頬のすぐ脇の木の幹に小柄が刺さると、男はもう悪態もつけずに逃げ去った。刺さった小柄を引き抜き鞘に納めた。

「もう安心だ、出てこい」

 下草と土埃にまみれた女が藪から這い出てきた。乱れた着物の胸元を掻き寄せながら

「あやういとこ、ありがとうございます」

「怪我はないか。観たところ大事はなさそうだが…いかがか」

「はい、お陰様ですり傷くらいかと…、お礼の言葉もございません。」

 玄明は女を一瞥したが、直ぐ目で急ごうと催促してきた。

「なら良い。そなた、ずいぶんと土埃にまみれておるぞ。早く帰り汚れを落とした方がよいぞ。こちらは早く曳間で宿を取らねばならぬので先を急いでおるのだ」

「せめて御名前だけでも…」

 玄明から手綱を受取り、騎乗してから、

「名乗る程の身分でもない。この在の者か、何れにせよ、気をつけて行かれよ」

 二人は、緩慢な坂をまた下り始めた。小一郎は、万が一と思い、後ろを振り返った。女はまだ深々と頭を下げたままだった。下郎の姿はもう無かった。

「薄汚れたなりをしていたが、あの女…、きづいていたか、小一郎…」

「…」

 玄明の問いの意味を計りかねていた小一郎に小さな溜息を点いた玄明が、

「軍略にあれほどの才器を備えた男が、男女の途(みち)にはオボコいかぎりだな」

「余計なお世話だ。少なくとも今はそれどころじゃないだろ。今この時にも結城は危機に面しているかも知れない」

「ハイハイ、そうだな。だが、石部金吉の小一郎殿に教えてやるよ。今の女、かなりの美貌だぜ。磨けば皓(ひか)る珠(たま)だよ。火がついちまったぜ。曳間に着いたら俺は煮売りでも出かけて一杯やってくる。宿は任せた」

勝手にしやがれ、目印に白切れを格子に結んでおく。」

(コヤツ、今夜帰って来る気は無いな)と小一郎は思った。


 宿で一人分の夕餉を支度し、独りで食べ終わった頃、小一郎に来客だと宿の主人が告げた。

 この地に見知りが居るはずもない。さては、結城からの急使か、いや、小一郎がこの宿いるまでは結城が知る由もない。

「案内するかい…それとも断っちまうか…どうするよ」

「どんな奴だ…」

「どんな奴だなんて、勿体ない言いようだよ。若いのも隅に置けないぜ。今来るからよ」

 薄ら笑いを浮かべた主人が、勝手に向かって、

「お会いくださるとよ。入っといでな」

「おい、俺はまだ会うとは言っとら…」

 言い終わらぬ間に、袖に浅蘇芳(あさすおう)の紅葉が散った瑠璃紺(るりこん)地の小袖を纏った女が小一郎の前に着座した。

「んぞ……そなたは…先程の…うーと」

 玄明の言葉は確かだった。

 さっきまで土埃に塗れてた女と同じ女とは思えない美しさだった。しかも、一抹の妖しさのある秀麗。その変化(へんげ)は、さながら玉藻乃前(たまものまえ)の如くであった。

「先程は誠にありがとうございました。わたくしの名は早魚と申します。不躾とは存じましたが、も一度の御礼をと思い罷り越しました」

次回ヘ続く

 

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

 

 

叛乱 結城合戦 第10話

男達の喉を切り裂いて血の海に沈めてやりたい。だが、心はこれ程に憎みながら拒めない己の躰こそ九にも八にも切り裂いて七里之濱に沈めたい。

 

 

 


永亨十二年(1440)九月 鎌倉山之内 上杉邸

「俺はいつも兄貴の陰になる」

 関東管領上杉兵庫頭清方は、全てに苛立っていた。その苛立ちは、昨日今日の苛立ちではない。

「俺の苛立ちはあの時からだ…」

 清方は、寝間の上に胡座をかき、眼前の寝酒を徳利で呷る。

 上杉憲実、清方兄弟は、関東管領山内上杉家の出身ではない。同じ上杉姓でも越後守護上杉家の出身である。通常ならば兄憲実は関東管領になれる立場にはない。

 では、なぜ関東管領になれたのか。

 それは次の二つの理由による。

 上杉憲実が幼少より非常に英邁であった事。

 また、当時の関東管領上杉憲基に実子が無く、かつ、音に聞こえた憲実の英邁さから自分の後継者にと評価された事。

 しかも、上杉憲基は二十七歳を一期としたせいで憲実は僅か十歳で山内上杉氏関東管領職を襲った。と云っても、十歳の子供になにかができるはずもない。山内上杉家の家宰長尾忠政や諸将の言付けを着実に守る日々であった。ただ、憲実が他の子供と違っていた点は、人の思考や内心を常に慮る少年になった。いかに立身とはいえ、十歳の少年が親元を離れ他家に養子にやられた訳だ。若くして老成するは仕方なかった。

 二歳違いの弟の清方は、父親の越後守護上杉房方の命で兄の元服時に相伴衆として鎌倉に入った。

 上杉清方の云うあの時とは、鎌倉入府したこの時だった。以来、清方は、優秀な兄の陰となってしまったのだ。

「お館様、よろしいでしょうか」

 襖の向こうから声がした。酔いが回っている清方には声の主が誰か分からなかった。

「誰ぞ」

「お館様、忠政めでございます。おくつろぎの処、誠に惧れいります」

 山内上杉家関東管領家の家宰を勤める長尾尾張守忠政が更に重ねた。

「早急にお耳に入れたき事案が発生致しました」

 史書・長尾正統系図に曰く、「文武器量尋常の勇士、凡そ忠功一代武勇の発明、八州の隠れなし」と讃えられ文官として能吏であり、武臣としても名将である。

尾張守か…こんな夜分になんだ…くだらぬ用なら許さんぞ」

「御庭に才賀丸(さいがまる)が参っております。結城城で動きあった由、ご指示頂きたく、早魚(さな)を伴って参っております」

「ほう… 早魚をの…」

 清方の口元が下卑て垂れ下がる。

 庭に面した障子が二尺程開けられた。

 黒地装束のほっそりとした男が跪いている。男の眼には感情らしき揺らぎがない。まるで一匹の蜥蜴(とかげ)がいるようだった。背後には男より更に華奢な紫紺装束の影が跪いている。屋敷内から洩れ出る微かな燈明に映える面容は雪のように白く美しい女だった。ただ、男と同様に眼に感情は無く、凍てついた湖面のようだった。

 才賀丸とその一族は、箱根を根城にする乱破衆である。他の乱破衆と同じく、主君は持たず、金次第で雇われて乱破仕事を請け負う。

「ご下命により結城城探索のところ、昨日早暁、結城の家臣と乱破つくばねの玄明が二人して西に向け出立致しました。如何致しましょうや」

 急に興醒めしぞんざいな口振りになった清方が、

「その家臣とは誰だ」

「結城氏朝の養子となり、嫡子持朝の舎弟に取立られた結城玄蕃友成と申す者。出自は武士では無く猟師だった男でございます」

「元猟師だと…そのような下賤の者を取立てるとは、城方には余程、人がおらんのじゃろ。捨て置いてよいであろう。それより早魚(さな)、はよう着替えてこい」

 急かす清方の早魚にまとわりつく視線が更に粘り気を帯びる。

「御言葉をかえすようですが、友成なる人物は解りませぬが、同道したつくばねの玄明はかなりの切れ者、かつ、腕も立つ男、ただの使い走りとは思えませぬ」

「アー、面倒だ、尾州、そちに任せるゆえ善きに計らえ。…それより早魚、なにをしている。早く早く…」

 片手払いで長尾忠政をぞんざいにあしらい退出させた清方は、侍女に薄衣の支度を申し付けた。

「務めを果たせ」

 才賀丸が早魚に小声で告げる

 氷柱(つらら)に貫かれたような痛みが早魚の背筋を走る。

(この男にとって私は金儲けの道具でしかない)

 いつもの習いで早魚は躰から心を虚しくして人形となった。


 早魚(さな)は本当の名ではない。十九年前の七歳の時、戦に巻き込まれ父母と兄を失った少女には、名前も過去も、そして未来さえも無かった。唯一、首から下げた香取宮の護り袋が身の証だった。

 明日の命さえ危うい少女の命を救ったのは、少女が持つ類稀(たぐいまれ)な美貌と透き通るように皎(しろ)い肌であった。人買い市場で高値で売りに出された少女を才賀丸が一声で買い取った。

 早魚以外にも十数人の少年少女が才賀丸に買われた。彼等は翌日から一人前の乱破になるべく修行を始めた。武術体術の修練、精神力の鍛錬。かの修行の苛烈さは最初の一月で半数が落命するほどであった。

 しかし、才賀丸から早魚と名付けられた少女は、乱破の修行を課せられなかった。代わりに、和歌、歌舞音曲、所作礼法が、くる日もくる日も教え込まれた。武術にしても忍刀ではなく武家の子女が使う小太刀が教え込まれた。

「早魚はええのぉ、べっぴんに生まれてきたんで、きれいなべべ着て、楽な修行ばかりじゃ」

 一緒に買われて少年少女が口々に妬いた。

「バカを言うんじゃねぇ。あれは先々、遊び女か…良くて武家の側女として売られるんだよ、早魚は…」

 一番年長、十二歳の鷹丸(たかまる)が怒鳴った。

「早魚はまた売られるんか…売られるんは嫌じゃ。ここも辛いけど皆がおるけぇ耐えられる」

 愚鈍で乱破では使い物にならず、飯炊きや小間使いに追いやられた犬丸がボソリとつぶやいた。

 買われて八年が経ち、早魚は十五歳になり女になった。女になった早魚を才賀丸は無理やり犯した。

 かといって自分の側女にはしなかった。一つの例外を除いて…

 翌日から兎丸(とまる)と名乗る五十過ぎの男が師となり「房中術(ぼうちゅうじゅつ)」と「本草術(ほんぞうじゅつ)」を教え込まれた。

 房中術とは、中国古来の養生術の一種。房事すなわち性生活における技法で、男女和合の道である。

 また、本草術とは、漢方の薬物学で、薬用とする植物、動物、鉱物の薬理を探究する。

 本来、これらは人の為の知識技能であったのだが、うち続く戦乱を経て、房中術の一部が卓越した性技で男を籠絡する技となった。籠絡した男から利益を引き出したり、場合によっては暗殺や傾国の手段と化した。

 本草術も同様に万物の薬理を探究し病を治療する技術であったのだが、荒々しい時代の要求に抗し得ず、一部の本草師が毒薬、麻薬、媚薬の調合に手を染めた。

 二十歳になった早魚は才賀丸の命ぜられるままに各地の領主小名や都の公家を、教え込まれた房中術で虜にし情報を盗んだり、麻薬で廃人としたり、毒薬を用いて暗殺もした。

 初めは良心の呵責に苛まれもしたが、心が壊れてしまう前に自らの躰から心を虚しくして人形となる術(すべ)を身に着けた。

 関東管領上杉清方が早魚の美貌の噂を聞きつけ早魚を召した。早魚の房中術と調合する媚薬で清方を虜にするのは赤子の手をひねるも同様であった。その恩恵として関東管領上杉家の汚れ仕事の全てが才賀丸の手中となり莫大な富を生んだ。

 半裸で寝間に座る清方の周りを薄衣単衣の下は裸体の早魚が痴態を晒して舞い踊る。しばしば早魚が清方の傍らに寄り、口移しで酒を流し込んでやる。酒には早魚が調合した媚薬を溶かしてある。五度も口移しをすれば、清方の眼は血走り、局所が猛った。

「早魚……わしはもう我慢できん…はようこっち来い…」

「お館様…、早魚ももう我慢できませんわ…早くお館様を躰中で感じたい…でも、男女の交わりの快楽は焦らせば焦らすほどに…」

「そのような意地の悪い…わしはお前以外の女ではもう男になれんのよ…はよう、はよう、はち切れそうじゃ…頼む頼む…」

 血走った眼(まなこ)から臆面なく涙を流し、半開きの口からは夜具を濡らすほどの涎を垂らしている。

 男の醜態に吐き気を覚えた。役目とはいえこれから、こいつに抱かれなければならないと思うだけで怖気が振るった。

(このまま毒を盛って殺してやろうか)

 殺意をすんでのところで早魚は押し留めた。

「婀々…、お館様…早魚を早く、さぁ早く、可愛がり下さいませ…何度も何度も…」

 早魚は薄衣を脱ぎ捨て、清方に覆い被さっていった。

 その夜、早魚の性技と媚薬で清方は何度も昇天した。早魚が清方の寝間を抜け出したのは明け方だった。

 才賀丸が早魚を連れ立って鎌倉山ノ内上杉邸を辞去する際、長尾尾張守忠政に呼ばれ別室に案内された。

 早魚が別室に入ろうとすると

「そなたは庭にひかえよ」

 あからさまな侮蔑を含んだ目で早魚を見ながら、尾州は吐き捨てた。

「おまえは庭でしばし待て」

と言いおいて才賀丸が部屋に入った。

 半刻して才賀丸が姿を表した。

「帰ろう、道々話がある」

 道々、才賀丸が語ったのは、才賀丸、鷹丸そして早魚の三人で結城友成とつくばね玄明を追って西上し、奴らの目論みを探り、明らかにしたのちに二人とも殺せとのご下命だった。討ち取るだけなら才賀丸と鷹丸で事足りるが、目論みを探り出すには早魚の術が不可欠との達しだった。

 

才賀丸一党に関東管領家から与えられた乱破屋敷は鎌倉南端、七里之濱にある。才賀丸は帰り着くなり床をのべ早魚を押し倒す。十五の早魚を犯した才賀丸だったが、普段は早魚に指一本触れない。しかし、早魚が役目を終えて乱破屋敷に帰ると、その時のみ早魚を犯す。さながら獣のそれのように…

 行為が一昼夜に及ぶのは稀ではなかった。

「役目を嫌がりながら、本心は欲しくて欲しくて堪らぬのであろう。子供の頃から育てたわしにわかるのだ。早魚、おまえは生来の淫乱よ。そうだと言え 言わぬか」

 そう何度も叫びながら早魚を責めたてた。そして早魚がボロ布の如くになるとやっと才賀丸は早魚を手放す。


 早魚は才賀丸の責め苦が終わると夏はもちろん、極寒の真冬でも七里之濱で長い間海に浸かる。まるで、躰の内外の穢れを波が流し去るのを念じながら。

「まだ九月とはいえ、そんなに長く浸かってると冷えてしまうだろ。ここに来て火にあたれ」

 鷹丸が濱の流木を焚いて濱に座って待っている。早魚は全裸で鷹丸の隣に座る。幼い時分から仔犬の兄妹のように育った早魚や鷹丸達に無用の羞恥は無かった。

 思いの外、躰は冷えていたのか炎が心地よかった。

「明日の払暁、お前と俺とお館で西に向かうとよ」

 鷹丸は早魚を見ずに水平線を凝視したまま云った。 

 早魚も水平線を凝視したままコクリと頷いた。

 暫くの沈黙の後に鷹丸が毅然と云った。

「早魚、遠出はいい機会だ。二人して逃げるか。いくら乱世でも俺達二人くらい生きていく隙間くらいある」

 今まで感じたことのない人らしい温もりが早魚の心底に広がっていく。しかし、早魚は温もりの広がりを打ち消すように

「おまえは人殺し、わたしは男誑(たらし)でしか生きてこなかった人間だぞ。他になにができるのだ…私達に…」

 早魚は鷹丸に微かな笑みを向け、また水平線に視線を戻した。だが、もう水平線など見ていなかった。その先にあるであろう天涯の果てを見ようとしていた。それは見いだせるはずもなく、あるとしても、早魚達には到底の無縁だと覚ると行き場のない怒りが躰を劈(つんざ)いた。

(あの男達の喉を切り裂いて血の海に沈めてやりたい。だが、心はこれ程に憎みながら、拒めない己の躰こそ九にも八にも切り裂いて七里之濱に沈めたいやりたい)


 翌払暁、三頭の馬が鎌倉から西へ駆けた。


次回ヘ続く

 


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

 

叛乱 結城合戦 第9話

 この樹は翌檜(あすなろ)という樹だよ。翌日には檜(ひのき)に成りたいと願った名前。念願を叶えたい我ら兄弟もこの樹と同じ。我らは明日成ろだね。

小山広朝の安堵

 

 足利朝氏の初陣は見事に果たせたが、目的の小山広朝妻子の救出はできなかった。

 しかし、直後に幕軍の総大将上杉憲実の使者が来城し、口上を述べた。

「小山広朝殿の御妻子は、小山家累代の菩提寺天翁院(てんおういん)にて丁重に遇しております。また、このたびの戦の如何を問わず広朝殿御正室と御嫡子広成(ひろなり)殿の身の安全は関東管領の名において保証するとの御意向でございます」

 加えて使者は、口上と同趣旨の上杉憲実の花押の入った念書を差し出した。

 城内大広間で口上を聴き、念書を手にした小山広朝の安堵とそれをひた隠そうとする複雑な表情を見て、持朝は不謹慎にも噴き出しそうになった。

「なにはともあれ、叔父上、ひと安心です。祝着(しゅうちゃく)でございます」 

 持朝の言葉に広朝の口の端が微かに緩んだ。

 使者を見送ったあと、大広間にいる結城一族と主だった家臣にも一様の安堵が流れたのだった。

 

永亨十二年(1440)九月 結城城 

 

 関東諸将によって編成された結城討伐軍が結城城を攻囲して早や半年が経とうとしていた。その間、まともな戦は、朝氏が初陣を飾った鬼怒川河畔の戦だけだった。

 月に二回程、攻城軍から矢を射かけてくる。まるで、京の将軍足利義教に対する義理事としか思えない形ばかりの攻撃であった。

 放った乱破の報告によると主戦派は、現関東管領上杉清方、駿河守護今川義忠、信濃守護小笠原政康の三武将に過ぎない。三武将の立ち位置を考えると彼等の思惑が透けて見える。

 清方とすれば、現関東管領といえ実権は未だ兄上杉憲実に握られている。結城討伐軍総大将にしても筋目なら現関東管領の清方が推戴されるべきなのだ。清方としては、ここで目覚ましい戦果を挙げ、室町将軍家を後ろ盾として名実ともの関東管領にならねばならなかった。

 また、今川義忠、小笠原政康等は華々しい戦功を足がかりに関東(関八州)への進出を目論んでいた。

 今川義忠の領国駿河静岡県東部)と小笠原政康の領国信濃(長野県全域)は、関八州に含まれない。

 

関八州とは、

相模 (さがみ) ・神奈川県中部西部

武蔵 (むさし) ・埼玉県、東京都、神奈川県東部

安房 (あわ) ・房総半島尖端

上総 (かずさ) ・千葉県南部

下総 (しもうさ) ・千葉県北部

常陸 (ひたち) ・茨城県全域、結城は常陸国に含まれる。

上野 (こうずけ) ・群馬県全域

下野 (しもつけ) ・栃木県全域

の八か国を指し、後に甲斐(山梨県全域)と伊豆(伊豆半島)が加えられる。

 室町幕府開幕以来、関八州の統治は鎌倉府が専権し、棟梁は鎌倉公方足利氏であった。鎌倉公方家が滅亡した現在、関東の大名、国人、土豪の切り取り放題の草刈り場になりつつあった。ただ、早急に乱世にならないのは、結城氏討伐が遅々として進まないのと同じ内幕があると結城氏朝は考えている。

 

「どうにも解せませぬな。あれだけの兵を擁しながら、なぜに管領軍は攻め寄せて来ないのか…のう、兄者」

 氏朝の舎弟で譜代の重臣である山川家の養子となった山川常陸介氏義(ひたちのすけうじよし)が、城門警護の上番交代の申次評定の席でボソリと云った。

「それはな、関東管領殿の為に命は捨てれんのよ、関東武士は…」

「もっと分かり易う云うてくれ。わしは兄者みたいに利口じゃないでな」

 氏朝の次弟で軍師格の勘解由久朝(かげゆひさとも)が受ける。

関東管領は関東武士の盟主であるが、主君ではない。主君の為には死ねるが、盟主の為には死ねない、武士とはそんな生き物だ」

「とは…」

常陸介、お前というやつは…察しが悪いな。道理のわからぬ奴じゃ」

「わしが二の兄者のように利口なら家臣に養子やられんわ」

「御所様の御前じゃ、久朝も氏義も大概にせよ」

 氏朝が、次弟と三弟をなだめる。そして、上座の朝氏に一礼したのちに、

等持院足利尊氏)様の開幕以来およそ百年、東国武士の胸中には、鎌倉府に対する畏敬と鎌倉公方家への忠義心が染みついているのだ。理屈ではない。これは習性(さが)だ。御所様が鎌倉公方の名乗りを挙げた以上、幕軍の将兵の心中に御所様が籠もる結城城を攻めるのに躊躇が生じた。分かったか、氏義」

 氏朝の思料に、もう一つの筋道があった。十中八九、間違いはないと思うが確証が無いので口にしないのだが…

(上杉憲実は予見しているのだ。足利義教の圧政の終焉を…)

 足利義教の苛烈な幕政は、そもそも室町幕府の政体に馴染まない。三管領四職等の有力守護大名の合議制こそが基本原則の政体である。

 鹿苑寺(ろくおんじ)殿(足利義満)の治世には、一時的な将軍独裁もあった。しかし、それは時期もあったろうが、何よりも足利義満なる人物の個性と器量に依った。義満に匹敵する器量が足利義教には無い。無理は必ずや破綻を招く。

 破綻した後、東国をまとめる旗頭は、鎌倉公方しかありえない。そのために朝氏達三兄弟を温存しておきたいと上杉憲実は考えている。氏朝は憲実の腹の中をそう読んでいるのだった。老獪だが、どっちも就かずの憲実のヌルさが今日の関東混乱の一因になってもいると氏朝は考えている。

 そう、上杉憲実という男は、永遠の保留者なのだと…。

 

明日成ろの三兄弟


 結城城内の朝氏達三兄弟の居館の庭に一本の翌檜の巨木が立っている。巨木がいつからあるかは、氏朝をはじめ結城城の者さえ定かでなかった。ただ、城下の古老の話によれば、昔はもっと沢山の翌檜が聳えていたが城普請の度、一本、また一本と伐り倒されていったらしい。

「今日はこれくらいで終わりしてはいかがでしょう」

 冷たく乾いた日光颪(おろし)が強くなりはじめる結城の秋、足利朝氏と結城持朝は顎から汗を滴らせながら木刀を構えている。

「まだまだ、七郎殿はもうお疲れか。せめてあと一本の手合せを」

「なにを戯言…御所様こそ、もう肩で息をしているではないか」

 朝氏の太刀さばきは、武家の奥育ちにしては野趣があり、筋も良いと持朝は感じている。流浪の間、湯浅五郎を相手に稽古していたのであろう。

 湯浅五郎と田中三郎も木刀を構えて持朝達と一緒に稽古をしている。

「兄上ー、兄上ー、夕餉(ゆうげ)の支度が整いましたよー」

 館(やかた)を繋ぐ回廊から安王が呼びかける。

 安王の背後には永寿王を背にした大井持光(もちみつ)がいる。

 日焼けで真っ黒な顔、声も大きく、常に笑顔を絶やさぬ男持光は、野性味溢れる風体ながら信州佐久郡のれっきとした領主である。

 永享の乱で孤児となり、頼ってきたまだ三歳の永寿王を損得抜きで庇護した。信濃守護小笠原政康の度重なる追及にも知らぬ存ぜぬでシラを切り通した。

 この春、春王安王達が日光山を下りたとの伝聞を聞くや、後事は一族郎党に託し、目立たぬ様、持光一騎のみで五歳の永寿王を背負い、雪まだ残る碓氷峠を越えて来た。

 誠にあっぱれなる武士(もののふ)である。

「ねぇ三郎、この大きな樹は杉なの」

「安王様にとって大きな樹は皆んなが杉ですね、まったくもう、アハハ」

 汗を拭き拭き、安王の目の高さまで屈み、安王の鼻先を三郎がチョイと摘む。


「この樹は翌檜(あすなろ)という樹だよ。翌日には檜(ひのき)に成りたいと願った名前。念願を叶えたい我ら兄弟もこの樹と同じ。我らは明日成ろ三兄弟だね」

 そう語る朝氏の傍らに安王と永寿王が並んで翌檜を見上げた。


 阿見小一郎改め、結城玄蕃友成(げんばともなり)が、玄明を伴に播磨(はりま、兵庫県南部)に向け旅立ったのは、三兄弟が翌檜を見上げた五日後だった。


次回ヘ続く

 


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ