そなたに問いたい…もし父が山を降り、東(あずま)下りをすると云わば、そなたどうするか…
永享十三年(一四四一年)卯月 暗殺の輩
日野俊世は従四位下侍従の位階官職に叙されている。
武家ならば国持大名に匹敵する。それが今は山猟師の真似をしている。猟を模して貴子に武芸と武略を教授してきた。だが、公家出自の俊世は、今日の結城小一郎の貴子への申様を聴き己の限界が身に沁みてわかった。
自邸の縁に座り冷気に身を晒し、そんな考えに沈んでいた。
「うっ、ちがうぞ」
(気の流れが変わった…)と日野俊世は感じた。山の気が何か違うと…
日夜を山野で過ごしてきた俊世は鋭敏に山の気の違いを感じ取れるようになっていた。(なんだ…この違和感は…)
「俊見…俊見はおるか…」
俊世が呼んだのは、一人息子の日野俊見だった。
縁を軋ませ大股で近づいた俊見が俊世の前に端座した。
「お呼びですか、父上」
六尺(約180センチ)を超える身の丈、ニ五貫(約93キロ)近い肉置きの大丈夫だった。
貴家の公達にもかかわらず刀槍にも弓馬にも長けた武辺の息子に育った。特に長じた得物は、長さ六尺半(約1.9メートル)の一木樫を操る棒術であった。樫棒の先端には鉄輪を嵌め込み打撃力をいや増しにしてあった。
「御所の衛士(えじ)に異常はないか…」
思いがけぬ父の問いに俊見は怪訝に眉を顰めた。
「一刻(約2時間)程前に衛士を下番して参りましたが、特段の異常はございませんでした。父上には何ぞ気がかりでも…」
白湯を啜り、息をついた俊世が、
「ならばよい…ご苦労であった。衛士は疲れたであろう、休むがよい」
「では、父上、おやすみなされませ」
俊見は父の前で板床に両手をついてわずかに叩頭し、立ち上がった。
「しばらく…待て」
俊世が我が子を小声で呼んだ。俊見が気付かなければそれはそれでよいと思った。
俊見が敏(さと)く振り返りその場に再度端座した。
「はい…」
幾ばくの躊躇の後、俊世は云った。
「そなたに問いたい…仮の話だが…もし父が山を降り、東(あずま)下りをすると云わば、そなたどうするか…」
父の真意を図りかねている息子は、父の表情を食い入るように見た。
「そのような怖い顔で父を見るな…ただな、そなたに申したいのは、父亡き後、何があろうとも、何処へ行こうとも、貴宮様のお側から離れてはならぬ…それだけじゃ。よいな」
賀名生ノ宮の北辺、薪置き場から火が出たのはその日の寅の上刻(午前三時頃)。
在勤の衛士は云うに及ばず非番の衛士や端女達三十名余りと俊世や俊見、小一郎に貴子、更に近在の郷士や百姓までが参集して土を掛けたり、隣接する釜場を引き倒して延焼を防ぐ手立てに懸命となった。
半刻(一時間)の消火活動により火災はほぼ鎮火した。
とその時、
「下郎、下がれ…御所と知っての乱入狼藉か…下がれ、慮外者ー」
小倉宮聖承の怒号が響いた。
反射的に小一郎が駆け出した。俊世と貴子が追いかけた。小一郎が庭を横切り、渡り廊下を飛び越えた。踏み荒らされた庭を駆け抜け、小一郎は座敷へ飛び上った。
小一郎の眼に映ったのは、数人の曲者に太刀一本で対峙する聖承の姿だった。
聖承に最接近している者の背中に体ごと躍りかかった。
その衝撃で曲者は書院の違棚に頭から突っ込んだ。
曲者と聖承の間に立ち塞がった小一郎は、脇差を掴もうとした。
「しまった…無い…しくじった」
寝起きで火事場に飛び出した我が寸鉄も帯びてないのに気づいた。まさか聖承の太刀を取り上げるわけにもいかない。
飛び込んできた男が全くの手ぶらであると覚った曲者の一人が、小馬鹿にしてせせら笑った。
「馬鹿め、宮ともども切り刻んでやる。ヒヒヒ」
小一郎は、聖承を背に庇ったまま壁際まで退かざるをえなかった。