叛乱 結城合戦 第1話 貴公等、この子等を如何にしても殺すと申すか! 是非もなし、結城氏朝が御相手仕ろうや。天下の旗幟、何するものぞ!!

ひかえよ 臣氏朝(うじとも)!流転の身なれど、父亡き後は、我が鎌倉公方なり。我の眼前にて上座に着するは不忠であろう。気に入らぬなら我の首を刎ね、仇敵義教に差し出すがよかろう。


結城合戦(ゆうきがっせん)


 その叛乱が、時代に、または、その後の時代に影響を与えたであろう叛乱をセレクトして書きたいと思って書き始めた。

 しかし、結城合戦が与えた影響とは…身も蓋も無く云ってしまえば、そんなものは無い。名称も「結城の乱」でなく「結城合戦」である。範囲も概ね結城城での籠城戦に限られている。期間もたった一年である。規模では単なる局地戦に過ぎない。

 では、なぜ取り上げたのか?

それは、

カッコいい

からである。

 

結城合戦」は、永享十二年(1440)、下総国結城城(茨城県結城市)において城主・結城氏朝(うじとも)、嫡子・持朝(もちとも)が、足利幕府軍・上杉清方(きよかた)、今川範忠(のりただ)、小笠原政康を向こうに一年間の籠城を戦い抜いた。翌年嘉吉(かきつ)元年(1441)、奮戦虚しく結城城は落城、結城氏朝(享年四十歳)、持朝(享年二十一歳)父子は敗死した。

 合戦の火種は三人の子供である。三人の子供とは、第四代鎌倉公方足利持氏の遺児・春王(はるおお)、安王(やすおお)、永寿王(えいじゅおお)である。

 では、なぜ三人の年端も行かぬ子供等が籠城戦の原因となったのか?

 

 原因を語る前に足利幕府について語ろうと思う。特に、幕府の職制を理解していただければよりわかりやすくなるとおもう。

 日本史のテキストライクな説明ではウンザリだろうから、ビジネスライクにやりたい。

 足利幕府株式会社は、建武三年(1336)に初代社長(将軍)足利尊氏によって、京都市で創業した。尊氏亡き後、嫡男・義詮(よしあきら)が2代目社長となった。

 足利幕府㈱が全国展開する以前の全国シェアNo1は、鎌倉幕府㈱だったが、過酷なシェア争いの末、足利幕府㈱が鎌倉幕府㈱を打倒した。

 鎌倉幕府㈱の本社があった神奈川県鎌倉市に足利幕府鎌倉本社(鎌倉府)を置き、関東東北の営業を統括させた。鎌倉本社と他の支社(例えば九州探題)とのちがいは、支社長は社員から選ばれるが、鎌倉本社長(鎌倉公方)は、京都本社長と同じく足利一族から選ばれた。

 初代鎌倉本社長は、初代社長足利尊氏の4男・足利基氏(もとうじ)がなり赴任世襲した。また、鎌倉本社長を補佐する専務取締役(関東管領)は、足利尊氏の実母の実家である上杉氏が赴任世襲した。

 当初から京都と鎌倉は競い合い、微妙な軋轢を含む関係だった。代を重ねると更に両社の亀裂は深くなった。

 その亀裂が回復不可能になったのは、足利義教の6代目京都本社長の就任だった。この就任劇がなんとも酷かった。候補は4人いたが、役員会を開いても全然まとまらない。

 

 読者の皆さんは、結局どのように決めたとお思いか?

 

 なんと、

クジ引き

 だったのだ。

 

 リーダーとしての資質や経営者としてのセンスなどは最早、度外視だった。社長はお飾りにすぎなくなっていた。

 当時の鎌倉本社長は、4代目足利持氏に代替わりしていた。この男持氏、現実逃避と優柔不断が専売特許だった足利の男子(ボンボン育ち)にしては、野心と覇気があり過ぎた。あろうことか、京都本社長の地位を狙った。足利一族とはいえ傍系、しかも、代替わりを重ねて血はかなり薄くなっている。当然、野心は叶えられる筈もなかった。

 なら大人しくしてれば良いものを持氏は、京都本社の意向や命令に反発を繰り返した。

 例えば、書類記載時に使う日付の年号を鎌倉本社独自の年号にしてしまった。現代でいえば、大阪府だけが令和を使わず平成を使い続けるようなものだ。

 それ以外にも、嫡男「義久」の成人式(元服)の時、京都本社長義教の顔に泥を塗った。

 上流社会の男子の成人式では上位者(この場合は京都本社長足利義教)に敬意を示す意味で名の一字を上部に戴くのが通例である。これを偏諱(へんい)と呼ぶ。通常なら「義久」ではなく「教久」もしくは「教氏」となるはずだった。

 このままでは京都本社と鎌倉本社の関係が完全に壊れてしまう。なんとか融和させなければと考えた鎌倉本社の大番頭(関東管領)上杉憲実(のりざね)は持氏に諫言し丸く収めようと苦慮した。

 ところが、持氏としては、「憲実の野郎、俺の部下でありながら何かと京都の肩ばかり持ちやがって…。いっそのこと追放しちまうか」

 そんな上司の心理は、必ず部下に伝わる。憲実は、危機感を募らせ、実家のある群馬県に引き籠もった。

 永享十年(1438)、怒った持氏は大人数で群馬県まで押しかけ、上杉憲実に退陣を迫った。事ここに至っては憲実も覚悟を決めた。上司と真っ向から敵対したのであった。ただ、巧妙な憲実は独力で敵対せず、京都本社長足利義教を渦中に巻き込むのに成功した。

 日頃から持氏を苦々しく思っていた足利義教にとって上杉憲実のオファーはまさに渡りに船。京都から大人数を鎌倉に繰り出した。

 こうなると強気な持氏と云えども如何ともしがたくお手上げとなった。謹慎していた持氏、義久父子は自殺に追い込まれた。義久以外の男子三人・春王、安王、永寿王は近習に付き添われ逃亡、流浪した。

 そして、最後に辿り着いたのが、

結城城だった。


 これが世にいう「永享の乱」である。以後、豊臣秀吉小田原征伐までの約百五十年の間、関東は争乱の巷と化す。いわば、関東は応仁の乱を待たず戦国時代に突入した。


 筆者が、なぜ結城合戦が、いや、結城氏朝父子がカッコいいとおもうのか?、好きなのか?

 

 一言で言えば

 滅びの美学

 に尽きる。


 結城氏朝は、わかっていたはずである。弱体しているとは云えども足利幕府の号令により攻寄せる天下の旗幟を打ち破るなど不可能であると… それでも、できなかった。懐に飛び込んできた窮鳥を見殺しに。

 まして、長兄の春王は十三歳、次弟安王は九歳、末弟の永寿王はわずか五歳であった。

 父・鎌倉公方足利持氏が存命ならば「奇貨居くべし」との考えもあるが、持氏は自刃、鎌倉府は滅亡してしまっている。三人の遺児を戴いて戦うメリットなど何一つ無い。

 これは私見に過ぎないが、結城の血には、もしくは、坂東武者の血には、中央政権に対する拭い難い不信と嫌悪が流れているのかもしれない。京vs関東は、古代、将門、頼朝以来の宿命なのだ。

 

 室町時代は混沌(カオス)の時代である。社会に存在する対立軸が多数、且つ、複雑である。それは室町幕府成立からの業病である。

 足利尊氏は、南朝後醍醐天皇派)との泥沼の抗争に明け暮れ、平行して、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(実弟足利直義〈ただよし〉と甥・足利直冬〈ただふゆ〉との身内のケンカ)を闘う羽目になった。

 ちなみに直冬は名目上、直義の子となっているが、実際は尊氏が外で産ませた男子である。御台所・登子に遠慮し嫡出子にできなかったのだが、身の上を哀れんだ実弟足利直義が養子とした。直冬は直義に深い恩義を感じ、観応の擾乱では直義側に加担し、実父尊氏と戦い抜いた。

 前記の創成期戦乱を戦い抜くため幕府(足利尊氏)は、配下の守護大名に対してゴマをすらなければならない。つまり、広大な領地を奮発しなければならなかった。二国以上の国持守護大名などザラだった。特に、三管領四職(さんかんれいししき)に至っては、合算すれば、主家足利家よりも多い所領となる始末であった。

 三管領四職とは、足利幕府の政務を総理する内閣といえばわかりやすい。皆が足利氏の血縁や譜代の家臣である。

 三管領は、細川氏、畠山氏、斯波氏の三家。総理大臣(管領)となれる家柄。

 四職は、山名氏 赤松氏、京極氏、一色氏の四家。国務大臣侍所頭人)になれる家柄。

 三管領四職を始めとする全国の守護大名が経済力と兵力を持ち、好き放題をし始め、幕府の統制が効かなくなっていく。そのプロセスが室町時代と云える。

 その点同じ幕府の始祖、徳川家康は実に巧妙であったと云える。勉強家の家康は、室町幕府の弱点を見抜いていたにちがいない。徳川幕府の組織設計を観ればそれがわかる。

 徳川幕府下の大大名は、加賀前田家、薩摩島津家、仙台伊達家、長州毛利家、筑前黒田家、肥後細川家、全て外様大名である。

 外様大名に不満が生まれないよう広い領地を与えている。しかし、彼等を幕政に決して参画させない。一方、老中以下の幕閣の要職には、最高でも三十万石(彦根井伊家)、概ね十万石規模の譜代大名にしか参与させない。勢力と権力を分離したのだ。

 さすが狸ジジィは大したものである。

 


 さて話が横道にそれた

 結城合戦の物語を始めよう。


永享十二年(1440)二月 結城

 

結城城内客殿

 結城氏の主だった眷属と家臣が、十一代当主氏朝の召集に応じて集まった。氏朝を囲んで嫡子持朝、氏朝の弟久朝、同じく山川氏義、一門衆の小山広朝、水谷時氏、重臣の家老長沼秀宗、梁田修理、黒田将監。

 皆が苦渋を呑んだ顔をしてるのは、三人の御曹司の受け入れを召集令とともに報せてあるからだ

 氏朝が観るところ、最も不満気なのは家老長沼秀宗だった。小豪国人が乱立する関東において、常に冷静な判断で結城の舵取りしてきた家老にすれば、氏朝の判断は自殺行為に等しいと思えただろう。案の定、秀宗が口火を切った。

「殿にはどのような御成算がお有りか承りたい」

 いい加減な物言いでは許さぬとの鋭い舌峰だった。

「成算など有りはしない。だが、年端もいかぬ子供に何の科があると云うのだ。まして、今回の騒動は鎌倉公方関東管領の争いに将軍が無理矢理乗っかってきただけではないか。関東の仕置は関東が決める。それが鎌倉府開闢以来の御法である」

「なんと青臭い…理屈はそうではありますが、理屈で御家は保てません」

「青臭いだと…秀宗ッ、そちは儂(わし)に説教するか」

「兄上落ち着かれよ。秀宗とて主家大事ゆえなのだ。他意はない」

 片膝立ちした氏朝を押し留めたのは、次弟久朝だった。

「取りあえず御曹司にお会いになられては… 我等が命を懸けて戦うに値する若者であるならばそれで良し、さもなくば…、それも宜なるかな。 兄者、いかがですか」

 三弟山川氏義が口を添えて来た。利に敏い氏義らしい意見であったが、諸将が居並ぶ全体評定の場で云うべきではなかった。

「叔父上、少々言葉が過ぎましょう… いざとなれば御曹司を取引材料にせよ申されるか!」

 普段は無口で大人しい嫡男持朝が氏義に噛みついた。持朝のあまりの剣幕に座が水を打ったようになり、更に座の空気が冷えてしまった。もう誰もが口を噤んでしまった。

 長沼秀宗が、持朝の方にいずまいを正して云った。

「若殿よ、若殿はいずれ結城の頭領になるお方じゃ。頭領の務めとはただ一つ、家を保ち発展させること。天下に義の旗を掲げることではありません」

 秀宗は次代持朝への諌めに仮託して、当代氏朝に諫言しているのだと氏朝は理解できた。

「まずは御曹司に対面しようではないか。話はその後にしようではないか」

「されど父上…」

「まぁ、待て、持朝。戴くに値せぬ時であっても取引材料になどせぬ。然るべき落ち着きを見つけ伴を附けておくりだすでな」

 氏朝は諸将を見渡した後、

「本日の評定はこれにて」

 氏朝の宣言に一同は平伏した。

 

入城

 鬼怒川の流れを引き込み外堀とし、掘った土は丈々と積み上げられ土塁を築いている。城内の曲輪は内堀で分割され各々が橋で結ばれている。橋を落とせば、曲輪ひとつひとつが独立した防塁となる仕組みだ。

 結城城を見下ろせる丘陵にようやく一行は着いた。今朝早くに日光二荒山を出立したが、幼子の安王と永寿を連れ、小笠原政康の目を掻い潜ったので思いの外、到着が遅くなった。

「結城の城は、平城ながら堅固な造りになっておるな。五郎、如何観る?」

 十三歳になった足利春王が、傅(めのと・高貴な家の子弟の守役)の湯浅五郎に問うた。

 鎌倉を追われて関東を流浪している間に春王様は随分と大人びたと五郎は思った。

「結城殿は、名将の誉れ高い田原の藤太藤原秀郷公の裔にして関東八屋形の一家でござる。この地を治めて長きに渡っておりまする。前の上様からの御恩も一方ならぬと存じまする。必ずや御曹司の力になると存じます」

 先乗りし一行の受け入れの約定を取ってはあった。しかし、当主結城氏朝が心変わりし、三人の御曹司を絡め捕り、関東管領上杉清方に差し出す可能性も少なからずあると五郎は思った。

「天涯に身を置く処なき我らじゃ、そうなれば、武士らしい最期を選ぼうぞ」

 五郎の胸の内を忖度したように春王が凛とした口調で言った。

「兄上、安王は腹が空きました。早く参りましょう。結城は首を長くして待ってますよ」

「永寿もお腹、空いた」

 まだ九歳の安王と五歳の永寿は、城に向かって今にも駆け出しそうであった。

「五郎、三郎、持光、さぁ参ろうぞ」

 安王の傅の田中三郎が安王の手を引き、信濃から永寿に付き従ってきた大井持光が永寿を背負った。五郎は辺りに目を配りながら春王に続いて丘を降った。

 

対面

 春王は想像していたより大人になっていると氏朝は驚いた。少年の面影は消え失せ、最早、凛々しい青年の面構えだった。ただ、凛々しさの内に長い流浪生活の澱(よど)みを感じた。この澱みをこやしに身を立てるか、はたまた、澱みのまま身の破滅とするか、どちらであろうかと束の間思案した。

「春王君(ぎみ)、大きゅう成られた。儂が見知っているそなたはまだほんの子供であったぞ。儂を憶えておるか」

 氏朝が鎌倉府に出仕していた時分、御所内庭でお付きの女房達と鞠遊びに興じている春王を何度か見かけた。あの無邪気に遊ぶ童がこのように仕儀に…。時が過ぎるとは残酷なものだと感じた。

 三人の貴人は、同じ浅黄色の水干を身に着け、春王のみが脇差を佩いている。上座に座る氏朝の眼前に兄弟は横一列に着座し、湯浅五郎、田中三郎、大井持光等が背後に控えている。そして、その周りに結城の一族郎党が着座している。

「この度は格別のご厚情を以て我等の入城をお許しいただき誠にありがとうござりまする。幼き弟達は無理ではありますが、この春王は太刀を持って戦い、亡父持氏の無念を晴らしとうございます。何卒、引廻しの程よろしくお願いいたしまする」

 三兄弟は揃って平伏した。

「ご立派な口上、痛み入る。ただ、御曹司たちの望み…だがな、結城は尽力するかどうか決めかねておるのじゃよ」

「それはもう決まったのでは…ご尽力いただける前提の入城ではなかったのか」

 自分の顔、いや全身の血の気が失われていく錯覚を春王は覚えた。〈春王、しっかりせねば…ここが踏ん張りどこぞ〉渾身の気を込めて言葉を継いだ。

「ここに至っては頼りは結城のみ…、幼き弟達も流浪暮らしが既に限界になっております。何卒、なにとぞ」

「貧すれば鈍するとは真じゃの。貴種も儂達と同じ人なのだのぉ」

 侮蔑に近い視線が四方八方から兄弟に注がれた。

 春王の内で何かが弾けた。年来の鬱屈と屈辱だったのかもしれない。仁王立ちし、この世の隅々にまで届くかのように獅子吼(ししく)した。

「ひかえよ 臣氏朝!流転の身なれど、父亡き後は、我が鎌倉公方なり。我の眼前にて上座に着するは不忠であろう。気に入らぬなら我の首を刎ね、仇敵義教に差し出すがよかろう」

 あまりのことに一堂呆気に取られた。背後の五郎達も兄弟も春王を見上げたままピクリとも動かない、いや、動けなかった。

 ところが、凍りついた座の内、一人だけにこやかに微笑む者がいた。誰あろう罵声を浴びた張本人、氏朝であった。

「見事なり!それでこそ天晴なる武士(もののふ)ぞ。さっさっ、これへ、一の御曹司。二の御曹司も三の御曹司も」

 氏朝は上座から降り、上座を三兄弟に譲った。

「御無礼申し上げお赦しくださいませ。不躾ながら御曹司の御覚悟と御器量を検分させていただきました。誠に天晴なお覚悟と御器量、氏朝、感服仕りました。御曹司のため粉骨砕身の槍働きをお見せ致します」

 氏朝は、春王の前に平伏し、臣従の意を表した。

 結城の頭領が心服した以上、一族家臣に嫌も応うもない。

「氏朝殿、春王様をお試しになられたのか。それこそ無礼あろう」

 湯浅五郎が氏朝にくってかかった。

「五郎、止めよ。この度の仕儀、結城家の未来を左右する決断よ。愚か者を戴いて戦うは武将の本意に非ず。だな、氏朝殿」

「御意」

 と答えると、直ぐ様立ち上がり、

「断は下した。幕府相手の大勝負じゃ。小山、佐竹、宇都宮の諸将に援軍の使者を飛ばせ!」

 ついで、持朝の下知が飛ぶ。

「城内に兵糧を運び込め!武器もかき集めよ。城の防備を固めろ」

 一同の者も、

「オー 戦に決したぞー」

「公方様の御子を戴いて、上杉の奴ばらとの大戦、腕がなるのう」

「正義は我等に有りぞ。上方の腰抜けどもに関東武士の槍の妙味、特と味あわせてやる」

 などと口々に壮語し、客殿を後にしていった。


「ところで、氏朝殿にお尋ねしたき事がありまする」

 氏朝と持朝、三兄弟とそれぞれの傅だけになったのを見計らって春王が問うた。

「何なりと」

「もし、わたしに覚悟も無く器量も無かったらいかがいたしたか、おうかがいしておきたい」

 氏朝はそれには答えず、三の御曹司を手招きした。永寿は二人の兄と持光の顔を窺った。春王が小さく頷くと上座から降り、氏朝の前にチョコンと座った。

「永寿君には辛い日々であったろうな。なにが一番辛かった?」

 空を仰ぎ、少し考えた後、

「お腹が空いたこと…」

「こら、永寿、口を慎め」

 二の御曹司安王が叱った。

「アハハハッ!そうか、おなかが空いたのが一番つらかったか。さもありなん」

 粥の仕度をせよと奥に申し付けた氏朝が、三兄弟にふり返り、

「先程の問の答えを申そう。覚悟も器量もなければ、春王君の首を刎ね関東管領に指しだしたであろうな。その代わり、二の御曹司と三の御曹司は、然るべき筋を通じて追手のかからぬ土地ヘお移した。覚悟も器量もない兄上では弟達の身の上も危ういでな」 

 その言葉に五郎は気色ばんだが、春王はそれを制した。

「申されること一々尤もです」

「そなた達のうち一人でも生き残り、もし、鎌倉公方家を再興できたなら、空腹の辛さを忘れぬようにせよ。民草を飢えさせぬ政事(まつりごと)ができたならこの関東は京都に負けぬ繁栄を実現できるぞ」

次回ヘ続く

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。

読者諸兄には何卒ご了承くださいませ


 通常は一話完結を心掛けているのだが、今回は大好きな物語なのでつい、筆が走って収まり切らなくなってしまった。

 もし良かったら次回もお読み下されば嬉しく思います。

平将門の乱 何があってもダチは見捨てねぇよ たとえ朝敵の汚名を着ようともな 何故かって? 俺が平の小次郎将門だからだ

上(かみ)下(しも)共ども、私欲に塗(まみ)れているのなら、坂東はこの将門がもらう 文句があるか!

 

平将門(たいらのまさかど)の乱

 平将門の乱は、突発的に始まった無計画な乱であったと筆者は考えている。

 平将門の乱は、平安時代中期、天慶(てんぎょう)二年(939年)に平将門関八州国府を襲撃掌握し、自らを「新皇(しんのう)」と称した乱。

 また、時を同じく承平(じょうへい)六年(936)伊予国愛媛県)日振島(ひぶりじま)を根拠地として瀬戸内海全域を支配下に治めた元伊予掾(じょう)(伊予国府三等官)であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱と合わせて「承平天慶の乱」と呼ぶ。

 昨今のNHK大河ドラマにはとんとご無沙汰しているが、筆者がまだ小学生の頃、夢中になって見た大河ドラマがあった。それが、海音寺潮五郎氏原作の「風と雲と虹と」である。原作の素晴らしさは当然ながらとして、平将門役の故 加藤剛氏の精悍な武者振りと藤原純友役の故 緒方拳氏の老獪な策士振りが脳裏に今も焼きついている。叛逆者という言葉が放つロマンティシズムとピカレスクロマンに子供ながらもカタルシスを覚えた。


 名場面をご紹介したい。御通家には何を今更だが…


 シナリオ風でいってみる。


 近江国比叡山山頂、将門(加藤剛)と純友(緒形拳)が遥か下に平安京を見下ろしている。


将門「純友殿、都とはかように小さきものでありましたか」


 久しぶりに体を使い、山を登ってきた将門の額に汗が流れ、顔は紅潮して爽快気でもある。


純友「都だけではないぞ、そこに巣食う貴族役人共の小さき事、救い難いと思わぬか?のぅ将門 フッ…」


 薄笑いを浮かべる純友だか、眼だけはわらってはいない。


将門「ところで、伊予にはいつ発たれるおつもりか?」


純友「伊予掾など…やる役務などない。旨い魚でもを喰いながらゆるゆると行く。将門はいつ坂東へ…」


将門「この度の一族同士の諍いの裁定が出るまであとしばらくはかかるでありましょう」


 眼下の都を睨み、怒りの色を目に込める将門。それに目をやり、低く剛毅な口調で語り始める純友


純友「将門の殿、貴公は桓武の帝(みかど)五世の孫、この純友は大織冠(たいしょくかん)藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公の子孫だ。世が乱れ、民草が立ち行かなくなるなら、お主は帝となれ!わしは関白と成りて世の乱れを正さん」


将門「貴方は西海で、私は坂東で」


 二人は高らかに哄笑し肩を組み比叡山山頂を後にする


 とまぁこんな感じである。だが、このように二人が連携していた歴史的事実は全くない。


 一人は西海の大海原で、一人は関東の曠野で、示し合わせて腐り切った朝廷に鉄槌を下す。


この上なく痛快な出来事なのだが…。


 平将門とはいかなる人物であったのか?


 平将門は、桓武天皇五世の子孫にあたる。系図は、桓武の曾孫(ひ孫)の高望王が、平姓を下賜され臣籍降下し、坂東(関東)の上総介(千葉県南部の二等官)に任命され着任。その平高望の三男、平良将の嫡子として将門は誕生した。

 生年は延喜三年(903)説が有力、没年は天慶三年(940)とわかっているので、延喜三年生まれなら享年三十七歳。

 将門の特質は、なんと云っても戦が滅法強い。特に、寡勢で多勢を一気に駆逐する短期一点突破型の戦法は比類無く強い。誠に優れた現場指揮官、戦術家である。後述するが、惜しむらくは戦略家としては並の下、もしくは下の上あたりであろうか。

 そして、平将門を語る時、外してはならないのは、義侠心であろう。

 己を頼ってきた者に対しては無条件に庇護する、

 卑怯を嫌い、無道とは断固戦う。

 反抗する者には容赦ないが、追い詰めて勝敗が決した敵には逃げ道を残す。

 これらの美点の数々によって将門伝説は、今日まで関東に根強く残ったのである。ちなみに、千代田区神田明神三之宮は平将門命(みこと)である。将門は死してなお、坂東民草の守り神である。


 神田明神に関して、面白い話がある。

 神田明神氏子は、決して成田山新勝寺には詣でない。


 それはなぜか?

 それは…

ご自身でお調べくださいませ。


 少し話題を代えてみたい。

 そもそも、武士とは何なのか?その起源は?


敢えて言おう!


武士とは反社であると…


(パクリました。すいません)

 

 

 

 

 古代において、大和朝廷を構成する天皇、皇族、豪族等は血で血を洗う権力闘争を自らの手で行うのを厭わなかった。

 ところが、平安時代に入るとかつての天皇や皇族、豪族達は貴族化し文官の役割しか果たさなくなる。武官の汚れ仕事は人任せにする。地方の荘園の警護をさせている在地領主を呼び寄せ、自らの警護や雑用、時には血なまぐさい役務に使役する。

 侍(さむらい)は、動詞の侍らふ(さむらふ)の人用名詞で、本来の意味の一つに身分の高い人や敬うべき人(高僧や貴族)のそばに控える者を指す。

 かたや、地方では、藤原氏(特に藤原北家)の専横が著しい都での立身を諦め、地方へ下り土地を開墾し営農在地地主になる下級貴族や臣籍降下した皇族の子孫が増えた。

 当然、中には他人の領地を横領する不逞の輩も現れる。そんな輩から自領を守るため武装する。つまり、武装した農民一族集団が現れる。そして、自領の権利を公式に認知してもらうため、皇族や有力貴族に寄進する。これが地方武士の起こりである。はたして、中央、地方ともにやっている所業が、反社のシノギに似てはいないだろうか?

 都では、大親分(藤原氏天皇上皇)のボディガードやパシリ、時には荒事を受け持つ。

 地方では、自分のシマ(領地)を広げ、カチコミ(横領)には体を張ってシマを守り、時には、敵の親分(領主)のタマ(首)を取り、シマを拡大していく。シマからのアガリ(収益)を大親分(藤原氏天皇または上皇)に上納してカンバン(地位と名声)を上げる。

 同じ構図に思える。どうだろうか?

 最終的には、大親分を武力でねじ伏せ、神輿の担ぎ替えしたのが鎌倉幕府の成立である。 


 本題の平将門の乱の経緯に戻ろう。

平将門の乱の時間経過

 平将門の乱は、藤原純友の乱と合わせて「承平天慶の乱」と称されるが、本格的な叛乱行為は、常陸茨城県国府を襲撃し、「新皇」即位を宣言した天慶二年(939)に始まる。

 しかし、承平五年(935)から続く伯父・平国香(たいらのくにか)等の一族間の所領問題を原因とする坂東騒乱が前段としてある。一族間の私闘だった坂東騒乱を、後年になって朝廷は叛乱行為と見做し「承平天慶の乱」とした。

 もっとも、坂東騒乱において将門が、坂東で得た武名と名声は、後の叛乱行為の強力な後押しになったのは間違いない。

 

前段

●承平五年(935)二月

 将門が都において関白藤原忠平に出仕しているあいだに、亡父・平良将(よしまさ)の所領を横領した伯父・平国香を始めとする一族、また、将門の妻を巡り、源護(みなもとのまもる)一族との騒乱に突入した。 この時の戦いで伯父平国香は敗死した。


●承平六年(936)八月

 国香の弟・平良兼(よしかね)、平良正(よしまさ)と国香の嫡男・平貞盛(将門にとっては従兄弟)連合軍との合戦が勃発する。将門軍の圧勝となる。

 ここで登場した平貞盛の名を記憶してもらいたい。


●承平六年(936)九月

 朝廷の召喚命令に従い上洛、紛争の弁明をした。


●承平七年(937)四月

 微罪として放免され帰郷する。


●承平七年(937)八月

 憤懣やるかたない良兼、良正、貞盛は、始祖・高望王と将門の父・良将の木像を推戴する奇策を採って再戦に臨んだ。さすがの将門も一敗地に塗れたが、最終的には良兼等を筑波山に追い込んだ。


●承平八年(938)二月

 追い込まれ坂東を変転とする平貞盛は、京に逃亡しようとしたが、信濃国(長野県)千曲で将門軍に追いつかれ敗退。平貞盛は身一つになりながも都に帰還した。


●天慶二年(939年)二月

 武蔵国(埼玉県)国府に着任した権守(準一等官)興世王(おきよおう)、武蔵介(二等官)源経基(みなもとのつねもと)と足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)の間で紛争が勃発した。将門が調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝は和解したが、武芝軍がにわかに源経基を急襲し、経基は京に逃亡した。

 ここで登場した源経基の名を記憶してもらいたい。


●天慶二年(939年)

 常陸国の豪族・藤原玄明(はるあき、別名鹿島玄明)が、租税を納めず、公物を奪取して国府から追捕されていた。玄明は日頃から私淑し、厚誼を交わしていた将門を頼り身を寄せた。常陸介藤原維幾(ふじわらのこれちか)は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。

 

後段

●天慶二年(939)十一月

 玄明をめぐる対立が更に深まり、将門軍千人対常陸国府軍三千人で戦端が開かれた。

 将門軍が圧勝し、常陸茨城県国府の藤原惟幾を追い落とし、国府が保持する印綬(いんじゅ、官印)を焼き払った。明確な叛乱行為である。

 その後は、参謀役・興世王の進言「一国盗るも誅、八カ国盗りも同じく誅也」毒を喰らわば皿までである。関八州にあたる

下野国(栃木県)

上野国群馬県

武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県東部)

下総国(千葉県北部)

上総国(千葉県南部)

安房国(房総半島最南部)

相模国(神奈川県西部)

伊豆国静岡県東部・伊豆半島全域)の国府を次々と襲撃し、印綬を焼き払った。


●天慶二年(939)十二月、

 神懸かりとなった巫女の宣託により「新皇」と称する。これは、側近による演出であったと筆者は考える。


●天慶三(940)年一月

 将門追討が発せられる。

 平貞盛が、下野国(栃木県)の有力豪族・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と合力し、兵四千人を集めた。ここで登場した藤原秀郷の名を記憶してもらいたい


●天慶三年(940)二月十四日

 貞盛・秀郷連合軍は、将門の本拠石井(茨城県坂東市)に攻め寄せた。将門軍は、形勢が悪く僅か四百人で陣をしいた。

 その日は、春一番が吹き荒れ将門軍は追風を背負い、矢戦を優位に運び、貞盛、秀郷連合軍を撃破した。しかし、将門軍引き上げの際、急に風向きが変わり北風になると、風を背負って勢いを得た連合軍が反撃、将門は自ら先陣にて奮戦するも、流れ矢が将門の眉間に当たり討死した。

 以上が、平将門の乱の一部始終である、

 ちなみに、将門敗死の一年半後の天慶四年(941)六月、伊予国日振島にて藤原純友が誅殺される。

 

私見


 平将門の乱で考えられる事が二つあると思う。

 一つは、乱の一部始終を見ると、将門の乱が偶発的に勃発し、展開し、終息したかがよくわかる。

 要は、素行は悪いが憎めないトモダチ(藤原玄明)を庇うため国府に威しをかけた。 まさか、この俺様に反抗するまいと思っていたら、国府に挑みかかられた。退くに退けずに闘ったら、勢いで国府を占領してしまった。

 参謀(興世王)が毒を喰らわば…というから、民草を顧みない無道な朝廷共が相手ならば坂東八カ国をいただいた。

 戦勝の打上げをみんなでしてたら、舞妓に火雷天神菅原道真)が降りて「新皇」になれと云うからなった。

 俺に追われて逃げ回っていた従兄弟の太郎(平貞盛)がいつの間にか下野国の田原の藤太(藤原秀郷)を味方につけて挑戦してきた。

 ちょっとばかり、不利だったが、蹴散らしてやった。勇躍、引き揚げようとしたら背後を襲われたが、俺様がまた先陣切って闘えばどうってことはない。

 あれ?!眼の前に矢がっ!

 ブスッ!!

 

将門に、いや、将門サイドに、この叛乱を政略と戦略で俯瞰し得た人物は果たしていたのだろうか? いなかった。将門の武勇とカリスマ性に依存しただけの行き当たりばったりの叛乱であった。

 もし、いたとしたならば、政略的に占領した八カ国の統治方法を従前と全く同じにしないだろう。叛乱とは革命であり、革命と革新である。従前通りなら叛乱など必要ない。

 戦略的には、将門政権の藩屏(はんぺい・守りのこと)とすべき関八州の有力豪族に何ら調略の手を伸ばしていない。ひとえに、自らの武力を恃(たの)むところ大からに他ならない、

 新皇僭称後、表敬に来た藤原秀郷に不遜な態度で接した結果、むざむざと敵に回してしまった。

 二つ目は、武士の力を朝廷に見せつけた。

 これこそが平将門の乱の意義其の物であり、後世に多大なる影響を与えた。

 将門誅滅の為、公卿参議藤原忠文征東大将軍に任命されたのが天慶三年一月十九日、将門討滅が翌月十四日。一ヶ月かけても征東軍は間に合っていない。代わって、平貞盛やとくに藤原秀郷の戦功により将門は誅殺された。

 これまで犬のように蔑んできた武士の力を頼まねば賊徒を平らげられない。

 また、藤原純友の乱においても、坂東から都に逃げ果せた源経基が「山陽道追捕使」の副将に任命された。

 朝廷は、武士の力を借りなければ、国内の治安を保てないほど統治機構が老朽化してしまった。

 前記の途中で記憶していただきたいとお願いした三人についてご説明してみたい。


平貞盛

・源基経

藤原秀郷


 この三人には共通点がある。もちろん、「承平天慶の乱」鎮圧の功労者達で、乱後に朝廷から過分な領地や官位がもたらされたのは当然であるが、もっと重要な共通点がある。

 日本史に、造詣が深い方なら直ぐにピンと来るかもしれないが…


 解答は、

 彼等の子孫が、後世において天下覇権の勝者であったり、敗者であった。


平貞盛の六世の孫が、平氏の棟梁にして武家初の太政大臣平清盛である。


源基経の八世の孫が、源氏の棟梁にして鎌倉幕府初代将軍・源頼朝である。


藤原秀郷の五世の孫が、奥州藤原氏初代藤原清衡であり、八世の孫が、源義経を討ち、源頼朝に討滅され奥州藤原氏の最期の御館(みたち)となった藤原泰衡である。

 平安末から鎌倉初期の日本史の主役達の先祖等は、平将門の乱を足掛かりとして武家台頭の先駆けとなったのである。これこそが、平将門の乱の本当の意義なのかもしれない。


 泉下の将門公におかれましては、何卒、この一事を以てご留飲をお下げくださいまして、民衆の守り神とお成下さいますよう伏してお願い申し上げます。

 

 

 


 


 


 


 


 


 


 

 

 


 

 

磐井の乱 御国ぞ 何をか言わん 此の度、刃に懸けて物申す 我 起つは私心にあらず

勝つか負けるか 生きるか死ぬか 乾坤一擲 座して死すは男子の本懐にあらず 叛逆者磐井の雄叫びを聞け!

 叛乱とは、統治権力を行使する支配者に対し、被支配者が、理由の正当、不当の如何を問わず、武力を主な手段として用い、権力機構の転覆、権力の奪取を目的する団体的闘争行為である。

 現行の刑法(第77条 内乱の罪)においても首謀者は、死刑または無期禁錮の一発レッドカード、シャバとはオサラバする。

 

磐井の乱

磐井の乱は、利用された叛乱であると筆者は考えている。

 

 継体天皇二十一年(527)、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井君(いわいのきみ)が決起した叛乱と云われている。

 磐井の乱は、「古事記」と「日本書紀」に記述がある。しかし、二つの表記は似ているものの意図する所が明らかにちがう。

 

古事記(以後、記と表す)の記述

 此の御世に筑紫君石井(つくしのきみいわい)、天皇の命に従はずして礼なきこと多し。故、物部荒甲(あらかひ)の大連(おおむらじ)、大伴金村の連二人を遣わして、石井を殺し給ひき

 

日本書紀(以後、紀と表す)の記述

 継体天皇二十一年六月に近江毛野(おうみのけな)が六万の軍を率い、任那に赴き新羅に破られた南加羅任那)・㖨己呑(とくことん)を復興しようとしたとき、かねて反乱の機をうかがっていた筑紫国造の磐井が、新羅の贈賄をうけ肥(現在佐賀県熊本県)と豊(福岡東部 大分県)二国に勢力を張って毛野軍を遮断したので、天皇大伴金村(おおとものかねむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、許勢男人(こせのおひと)らに征討を命じた。翌年十一月に至って、大将軍の麁鹿火がみずから磐井と筑紫の御井郡で交戦し、ついにこれを斬ることをえた。その後の十二月磐井の子葛子(くずこ)は父の罪により誅せられることを恐れて,糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献じ贖罪を請うた。二年後、近江毛野は、安羅に渡ったが、目的の任那回復に成功しなかった。

(以上筆者意訳)

 

この表記の違いは、以下の点である。

 

一、まず明らかな違いは、文章量が全く違う。記の磐井の乱に関する表記はこれで全文である。紀の文章は、記に比べ長文である。記は事実を簡潔に表すのみであるが、紀の文章は、乱の経緯を子細に表している。その意図は、記の事実を脚色し、近江毛野の対新羅敗戦と任那の回復失敗が、磐井の乱の影響とする意図を筆者は感じる。つまり、外征失敗の言い訳に利用されたのである。

 

二、二つ目の違いは、記では「筑紫君石井(磐井)」と表し、紀では「筑紫国造磐井」と表している。これは如何なる理由があってなのか?

 キーワードは「国造(くにのみやつこ、またはこくぞう、と読む)」にある。国造とは、今で云えば県知事に近い。つまり、中央政府大和王権)からその地域の統治を委任された正式な有力地方豪族を意味する。一方、筑紫君磐井は、筑紫(現在の北部九州)の有力豪族に過ぎないとの名称になる。

 つまり、記は、磐井は反逆者ではなく、北部九州に割拠し、朝鮮半島との交易で力を蓄えた有力豪族である。よって、内乱ではなく、大和と筑紫の戦争であったと暗喩している。

 実際は、朝鮮半島南部の植民地(任那)を新羅に攻撃された大和王権は、失地回復の遠征軍を派遣した。前線基地となる北部九州で兵站(へいたん・物資や兵員の補給)の任を磐井に命じた。ところが、半島との交易を重んじる磐井は非協力的にならざる得ない。大和側にすれば、非協力的はイコール叛徒である。つまり、「殺し給ひき」となるわけである。上記の事柄を大和側がアレンジすると、紀の表現となってしまう。

 大和王権の秩序に組込まれた「国造」が王命を実行しないので討滅した。大和王権の北部九州簒奪の蓋然性に利用されたのである。

 

 では、何故、「古事記」と「日本書紀」では、これほど同じ事柄の表記が変わってしまうのか?

 それは、「古事記」と「日本書紀」では成立過程と成立意義が違うからである。

 古事記は、稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を太安万侶(おおのやすまろ)が編集したといわれる。カテゴリーとしては、説話集、文学と云える。

 日本書紀は、天武天皇の勅命により第六皇子の舎人親王が編纂した。古事記が文学なら日本書紀は、国の承認を受けた正史、公文書となる。

 ここで筆者の私見を一つ、

 太安万侶は実在(墓が発見されている)するが、稗田阿礼なる人物は実在しない。太安万侶が中央の有力豪族や地方豪族に伝え残る説話や古伝を寄せ集め「古事記」を編み上げた。安万侶に材料を提供した多くの人々を擬人化したのが稗田阿礼だと考える。

 話を元に戻す。

 古事記の「記」は記憶、記録の「記」である。

 日本書紀の「紀」は訓読みすると「のり」と読む。「のり」とは「法 典 教」の文字に通じる。

 古事記の成立意義は、将来には散逸消滅して分からなくなってしまうであろう過去の記憶記録を文学の形で残す事にあった。それが例え、為政者に都合が悪い部分があっても起きた事件をフィクションとして、または、簡略化してでも書き留めるのである。

 日本書紀の成立意義、ひとえに大和王権、ひいては、天皇家が日本を統治する正当性を重ね重ね説く。その一義である。日本書紀に記載された歴史や歴代の天皇の事績、其の物が唯一無二の法典であり教義なのである。後世に多用された「天壌無窮」「一天万乗」の素地が日本書紀に流れているのである。

 

 再度云う。磐井の乱は、天皇家と中央豪族が構成する大和王権の正当性を発露するために利用された叛乱だったのであると筆者は考える。

 尚、誤解が無いように付け加えるが、磐井の乱の起きた六世紀初頭の大和王権に自らの正当性を主張する意志があったかどうかはわからない。多分、意志はあったはずだと思う。ただ、王権の正当性が体系的に明文化されるのは、約百五十年後の天武朝の「記紀」の成立を待たねばならない。

 

 筑後国風土記によれば,当時あった八女郡衙(ぐんが)の南二里にありとの記述から現在の福岡県八女市の岩戸山古墳の状況と合致し、岩戸山古墳を磐井の墓と比定してまちがいないとされている。

 以上が「磐井の乱」に対する筆者の私見である。

 

 単純なる叛乱では無く、時代を変えた、もしくは、先駆けたと筆者が考える叛乱を、今後、数回に渉ってご紹介したい。

 次回は、武家台頭の先駆けとなった「平将門の乱」について考察してみたい。

 

 

 

 

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第五位 沖田総司(そうじ)

 戦国にも勝る動乱期であった幕末に誕生した剣客集団が新撰組である。中でも新撰組一番組組長は新撰組内で一番の使い手が抜擢される習わしであった。その一番組組長を誰にも譲らず逝った男が、沖田総司である。この一事でも沖田の剣の天禀が窺い知れる。

 その出自は陸奥白河藩の武士、沖田勝次郎の長男として生まれた。母に関しては詳細不明。父勝次郎も総司三歳の時死去。天涯孤独の総司が、どのような経緯か、江戸市ヶ谷、天然理心流・試衛館の内弟子となったのがわずか九歳の時だった。総司が秘めていた剣の才気はすぐさま煥発した。白河藩御指南番を手もなく破ったのが十二歳。後の新撰組、鬼の副長・土方歳三でさえ総司の前では赤子の手を捻るような扱いであったと云う。十二歳といえば、今なら小学六年生である。まさに神童の名に相応しい。

 文久三年(1863)、近藤勇土方歳三等試衛館グループと共に浪士組に参加。後日、新撰組と改名し、京都守護職会津藩主・松平容保(かたもり)御預となる。

 元治元年(1864)六月五日、洛中は祇園会の宵々山であったその夜、新撰組は、尊攘の志士が参集する池田屋を急襲した。維新を三年遅らせたとされる「池田屋事件」である。総司も先頭となって斬り込んだが、戦闘中、結核による大喀血で戦闘不能となった。

 鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還した近藤勇等は、甲陽鎮撫隊と改称し、甲斐(現在の山梨県)にて官軍を待ち構えよとの命を受けた。総司も従軍しようとしたが、結核はもう致命的な状態にあり、断念せざるを得なかった。慶応四年、千駄ヶ谷(現在の千代田区千駄ヶ谷)にて死去した。(享年二七歳)

 沖田総司の愛刀は、備前福岡一文字派名工則宗が鍛えた「菊一文字則宗」だが、総司が佩用したかどうかの確証は無い。


第四位 宮本武蔵 

 剣術を志す者だけでなく、己が目指す道で一流たらんとする者すべてが、崇拝して止まない剣豪である。生涯で六十回にも及ぶ真剣勝負を無敗で通した。

 有名な対決、二天一流宮本武蔵と巌流・佐々木小次郎の巌流島(当時は船島)の戦いでは、刀ではなく櫂を削りだした木刀で戦った。なぜ、武蔵は刀剣ではなく櫂を削った木刀を用いたのだろうか。これには複数の説がある。

 そもそも、この決闘は、武蔵にとって不本意であった。小倉藩主・細川忠興の肝入で渋々承知した。以前より剣客として佐々木小次郎を尊敬しており、彼を殺傷する気は最初からなかったとする説。

・剣術の戦法として櫂から削った木刀を用いた。理由は、佐々木小次郎の愛刀「物干し竿」は1メートルを超える長刀であった。当時の日本刀の刀長は60~70㎝が標準であった。つまり、小次郎は、30㎝も外の間合いから斬りかかれた。それは圧倒的優位である。故に武蔵は、「物干し竿」よりさらに長い木刀を使ったとする説。

・巌流島の決闘自体がフィクションであり、宮本武蔵との尋常の果たし合いを隠れ蓑にした小倉藩が仕組んだ佐々木小次郎暗殺事件とする説

等々

 美濃伝の刀工が鍛えた刀身に武蔵自身が拵えを造ったとされる銘 和泉守兼重、関刀工の祖金重が南北朝時代に作刀した無銘金重、鎌倉時代の刀匠大和国国宗。これらが武蔵の愛刀であったといわれている。無銘金重と大和国住国重は、武蔵が晩年を過ごした肥後細川藩のお膝元熊本の島田美術館に収蔵されている。


第三位 柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)

 年配の方の中には、柳生と聞くとあまり良いイメージ持たれない方もおられるかもしれない。創成期の徳川幕府の裏方で暗躍し、いわば、幕府のCIA的な役処を遂行した家柄と思われている。

 柳生石舟斎宗厳の嫡子が柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)で、柳生家の流儀であった「柳生新陰流」を徳川将軍家御家流にまで押し上げた政治家であった。また、柳生但馬守宗矩の子が、テレビ、映画等で有名な柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゃうべいみつよし)である。

 さて、本題の石舟斎宗厳について語ろう。

 元々、柳生氏は、大和国柳生ノ庄(現在の奈良県奈良市柳生町)の国人に過ぎない。弱小国人の例にもれず、宗厳も筒井氏、三好氏、松永氏と畿内の旗色に応じて主を変えざる得ない状態が長く続いた。ただ、宗厳と他の国人土豪と一線を画したのが、剣であった。高名な剣豪を柳生に招き、教えを請うた。特に上泉信綱とは深い親交を持った。最初、宗厳は、信綱との立合いを所望したが、信綱は高弟との立合いを指示した。宗厳は惨敗したが、上泉信綱の直弟子となる許しを得られた。

 柳生石舟斎宗厳といえば無刀取り(我は徒手で相対し、相手の剣を奪い取り、勝ちを得る剣技)の創始者だが、師匠・上泉信綱から無刀取りの公案(課題)を与えられ研鑽に努め、習得したと云われる。のちに、徳川家康の御前において「無刀取り」を披露し、賞賛を得た。これが「柳生新陰流」が将軍家御家流として隆盛する端緒となった。

 柳生石舟斎宗厳の愛刀は、天下五剣の一振である「大典太光世」との説もあるが、如何であろうか…


第二位 上泉信綱(こういずみのぶつな、かみいずみのぶつな)

 上泉信綱の詳細は不明な部分が多い。上野(こうづけ)国(現在の群馬県)大胡城主・上泉秀綱の一子であるといわれている。

 弘治元年(1555)、大胡城は、小田原城主・後北条氏康によって落城、かろうじて逃げ落ちた信綱は、箕輪城主、猛将で名高い長野業正(ながのなりまさ)に仕官した。この間に、愛洲久忠(あいすひさただ)が創始した「陰流」を学び、遂には自らで創意工夫をした「新陰流」を編み出した。

 長野家は業正の死後、嗣子・業盛の代に武田信玄によって滅亡してしまうが、信綱の才を惜しんだ信玄は、幾度となく家臣にしようと働きかけた。しかし、信綱は固辞した。固辞した信綱は弟子と共に諸国武者修行の旅にでた。自家の落城や主家の滅亡を目の当たりしてきた信綱には期する所があったのかもしれない、

 諸国武者修行中も剣豪上泉信綱の高名を知る武芸者の挑戦が後を絶たなかった。大和国柳生の国人・柳生宗厳も挑戦者の一人だった。柳生石舟斎宗厳でさえ、信綱でなく、高弟・疋田景兼にいいようにあしらわれる始末であった。すぐさま、宗厳は弟子入りを志願した。「柳生新陰流」創設の端緒となる出来事といえる。

 上泉信綱の華々しい事績として、室町将軍家・足利義輝の上覧と正親町天皇の天覧の栄誉に浴した唯一の剣豪である。

 また、それまでは木刀による稽古が常態で怪我や事故が多発した。信綱が、現代に残した大きな功績の一つとして、竹を割って束ねた「袋竹刀」の考案がある。安全に稽古ができる現代の竹刀に繋がる物である。


第一位 塚原卜伝(つかはらぼくでん)

 鹿島神宮茨城県鹿嶋市)の「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは「国摩真人(くになずのまひと)」の末裔である吉川氏である。

 吉川左京覚賢(あきかた)の次男、吉川朝孝(ともたか)は塚原家に養子に入り、のちの剣聖塚原卜伝高幹(ぼくでん たかもと)の誕生である。

 鹿島神流(鹿島古流、鹿島中古流)、天真正伝香取神道流を学んだ。十六歳で諸国修行に旅立ち、十四年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。同時に名乗りを「塚原卜伝」とした。

 生涯において「真剣勝負十九回、戦働き三七回、一度も不覚を取らず矢傷六ヶ所のみ刀傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ることニ一ニ人」の伝説が残っている。また、室町幕府十三代将軍・足利義輝伊勢国守護・北畠具教に剣技を教示し、「一之太刀」の奥義を伝授した。

 塚原卜伝は「無手勝流」を唱えたとして有名である。「無手勝流」とはいかなる流儀であろうか… 端的に云えば、「戦わずして勝つ」である。つまり、戦いの前に知略政略戦略を立て、万事遺漏なく万端を整え、敵に戦っても勝てないと悟らせ、敵の戦意を削ぐ。それが「無手勝流」の真髄と知れる。 前記したように、塚原卜伝は、数多く修羅場をくぐり抜けた結果、剣聖と呼ばれるまでの名声を得た。逆説的に云えば数多くの人命を奪ってきた結果で得た名声なのである。ここからは筆者の想像であるが、多くの人命を奪った結果で得た名声に辟易したのではないかと。人命を奪わない勝ち方こそが真の兵法ではないかと。

 読者の方々には、第一位は、なぜ宮本武蔵ではないのか…、いや、柳生一族が最終勝者だ、勝ち残った者こそ最も強い。とのご意見があるのも至極当然のこと。あえて、私が塚原卜伝を第一位にしたのは、戦わずして勝つとの境地にまで至った彼の思想に敬意を払うためである。

剣聖・塚原卜伝

剣聖・塚原卜伝

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戦争は政治の敗北である


最後に、この言葉を「ウラジミール プーチン」に贈るとともに、ロシア、ウクライナ両国に一日も早い和平が訪れんことを祈ります。

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第十位 足利義輝 
 室町幕府足利将軍家といえば、下剋上に悩まされ、時には洛外へ逃走しなければならない危機に何度も直面する武家の棟梁とは思えないていたらくだった。
 その中で、第十三代将軍足利義輝は武門の誉れを放つ将軍であった。剣術は剣聖塚原卜伝直伝の腕前。その腕前が最大限に発揮されたのが、義輝の最期の闘いにおいてだったのは皮肉といえるかもしれない。
 義輝最期の闘いとは、永禄八年(1565)五月十九日に勃発した「永禄の変」で三好三人衆松永久秀足利義輝を弑殺(しいさつ)した事件である。松永久秀来襲を予知していた義輝は、脱出に成功できるにも関わらず、将軍家の権威失墜を潔しとしないとの覚悟で迎え撃った。久秀軍一万をわずか10余名の御所の兵力で挑んで、久秀方数十名を討ち取ったというのだから、阿修羅のごとき闘いぶりである。
 義輝の奮戦の時、手にしていた愛刀が「三日月宗近」だといわれている。天下五剣のうちの一振が、斜陽たる足利将軍家武門の散華となった。

第九位 北畠具教(きたばたけとものり)
 南北朝時代南朝方の名臣北畠顕家(あきいえ)の命脈を継ぐ伊勢国司の家柄に具教は生まれた。天文六年(1537)、公家大名として爵位を授けられ、朝位朝官を歴任。また、戦国大名としても伊勢国(現在の三重県安濃郡の支配者長野工藤氏、紀伊国(現在の和歌山県)の九鬼水軍の頭領の九鬼氏を配下とし、北畠家を伊勢の有力大名とした。 
 永禄十一年(1568)、織田信長による伊勢侵攻に抗うも力足りず、嫡男 北畠具房(ともふさ)の養嗣子として信長の次男織田信雄(のぶかつ)を受け入れざるをえなかった。
 その後も信長との対立は収まらず、天正四年(1576)、信長、信雄父子の策略により一族もろとも殺害されてしまった。
 剣客北畠具教は、剣術を奨励し、伊勢に来訪する剣客を歓迎し保護した。自らも剣術の習熟を目指し、塚原卜伝(ぼくでん)、上泉信綱(こういずみのぶつな)等の錚々たる剣客から伝授を受けた。特に、塚原卜伝からは新当流の奥義を授けられたといわれている。奥義伝授の面目として具教暗殺の手勢相手に十九人を打ち倒し、百余名に手傷を負わせたとの逸話が残っている。また、一説には、逆臣・長野左京亮に刀を細工され、抜刀も出来ぬまま斬殺されたとも云わる。塚原卜伝上泉信綱に教えを受けたほど剣豪大名にとってさぞ無念ではなかったかと惻隠する。

第八位 真柄直隆(まがらなおたか)
 剣豪のイメージといえば華麗な太刀捌きや厳しい修練の末に会得した精緻な技量を想像する。しかし、真柄直隆は、何百何千という兵が戦う戦場で大刀を振りかざし、力でなぎ倒す。いわば、剣豪というより豪傑、戦国の猛将といったイメージである。主人は越前の戦国武将朝倉氏。戦場では黒鹿毛の馬に騎乗し、越前の名工千代鶴国安(ちよづるくにやす)が鍛えた五尺三寸の大太刀「太郎太刀」を振り回して敵を屠ったといわれている。
 室町幕府十五代将軍・足利義昭が、朝倉義景を頼って居城一乗谷に滞在中、御前において「太郎太刀」を数十回も振り回しその剛力を披露した。戦働きでも、元亀元年(1570)、朝倉氏浅井氏連合軍と織田氏徳川氏連合軍が近江国(現在の滋賀県姉川河畔で激突した「姉川合戦」において、敗色濃い朝倉勢を逃がすため単騎徳川勢に切り込んでいった。十二段構えだった徳川方の陣の八段目までも突破したというのだから凄まじい豪傑ぶりである。

第七位 佐々木小次郎 
 剣聖宮本武蔵との対決「巌流島の決戦」で有名な巌流佐々木小次郎だが、彼の生涯については数多くの謎に包まれている。そもそも、彼の実在を疑う向きもある。 世に伝わってきたおよそその見解としては、戦国期末から江戸時代初めの剣豪だと見られている。出自も、越前国(現在の福井県)浄教寺村出身説、豊前国(現在の大分県)田川郡出身説がある。
 富田勢源に中条流を学んだ。十代になると諸国で武者修行し、十六歳で秘剣「燕返し」を体得した。中条流では、主に一尺五寸ぐらいの小太刀を用いるが、長身だったといわれる佐々木小次郎は師匠勢源より三尺余りの大太刀を用いた修練を命ぜられた。
 佐々木小次郎の愛刀といえば、身の丈程もある長剣、通称「物干し竿」といわれた備前長船長光である。この長剣を背負い、肩越しに抜刀し、下段からせり上がるように振り抜く。飛ぶ燕でさえその切先から逃れられなかったことから「燕返し」と名付けられたといわれている。

第六位 近藤勇(いさみ) 
 幕末の京洛の過激派浪士を震え上がらせた新撰組。その新撰組のトップが局長・近藤勇である。
 出自は、多摩の豪農宮川家の三男、幼名は勝五郎。嘉永元年(1848)、天然理心流(てんねんりしんりゅう)試衛館(しえいかん)に入門。翌年には目録、同年十月には三代目近藤周斎(しゅうさい)と養子縁組し近藤勇を称した。
 将軍徳川家茂上洛の際、警護目的のため徴募された浪士組(のちの新撰組)に参加した。副長土方歳三とともに数々の内部粛清を経て新撰組内を掌握した。
 近藤勇の名が天下に知れ渡ったのは元治元年(1864)六月五日の「池田屋事件」によってである。当時の京都には、過激な尊王攘夷派の志士が、全国から集結して来ていた。中川宮暗殺計画の情報を入手した近藤等新撰組は志士捕縛のため池田屋に討ち入った。尊攘派の志士は二十人余り、新撰組は四人、しかも藤堂平助は負傷、沖田総司は喀血により戦闘困難になった。
 後日、この模様を試衛館に知らせた近藤の書簡には自らの愛刀「長曾祢虎徹(ながそねこてつ)」の頑強さと切れ味の良さが書き込まれている。

 

名将の名刀 第二章 名将と名刀は義友(とも)と宿敵(とも)によって研かれた。石田三成と大谷吉継の友諠、石田正宗と包丁藤四郎   武田信玄と上杉謙信の情誼、備前長船景光と謙信景光

石田三成と「石田切込正宗、もしくは石田正宗」

「石田切込正宗」の名称は、石田三成が所持していたこと、刀身にある数ヶ所の切れ込み痕に由来する。

 刀工は、鎌倉末期の相模国(現在の神奈川県西部)鎌倉の人、岡崎五郎入道正宗といわれている。徳川吉宗の命によって書かれた「享保名物帳」によると、宇喜多秀家が森若狹守から四百貫(約六千万円)で買い、石田三成に贈答した。豊臣秀吉が没すると、加藤清正等の武断派七将が三成を襲撃する事件がおこった。あろうことか三成は伏見城の政敵徳川家康に助けを求める。家康は、次男・結城秀康に護衛を命じ、三成を佐和山城まで送らせた。三成は、その礼としてこの刀を秀康に送った。秀康は「石田正宗」と名付け愛刀とした。秀康の死後、作州津山藩松平家へ伝承された。

 作風は、鎬(しのぎ)造で庵棟(いおりむね)、反りが高く、身幅は細目。切先は中切先である。元は長大な刀身であったが、茎の銘字が見えなくなるほど切り詰められている(よって無銘)。これを大磨上(おおみがきあげ)と呼ぶ。鍛えは板目約み、平地には砂地のような地沸が入り、線状に青黒い地景も見て取れる。刃紋は互の目刃交じりで金筋と砂流しが入っている。沸の美しさが際立つ相州伝の作風であるが、互の目が目を引き、刃縁が締まりごころな一振といえるかもしれない。

 

大谷吉継と「包丁藤四郎」

 身幅が広く、包丁に似ているところからこの短刀は「包丁藤四郎」と呼ばれている。刀工は、鎌倉中期、山城国(現在の京都府中南部)粟田口派の名工・粟田口藤四郎吉光である。吉光は「包丁藤四郎」のような短刀を得意とした。「享保名物帳」の消失部にある「包丁藤四郎」と同一物か別物かで議論されてきたが、「駿府御分物刀剣元帳」の発見により、現存刀は「御家名物」として伝来してきたと判明した。

 この短刀は、関ヶ原の戦場に病を押して出兵し、三成との友誼に殉じた義将・大谷吉継の佩用の短刀だった。戦役後、家康が入手したと思われる。駿府御分物(徳川家康の形見分け品)として、尾張徳川家の所蔵品となった。

 刀身は、平作り、庵棟、裏表の刀樋に連樋がある。その連樋は研ぎ減って微かにしか残っていない。差表元にはふくれ破れが確認される。茎には目釘孔が三つあり、尻近くには「吉光」の二字の銘が見て取れる。刃文は直刃に小乱れが交じり、刃縁に小沸が入っている。「享保名物帳」の消失部に記載されているもう一つの「包丁藤四郎」は徳川秀忠から紀州家徳川頼宜に下賜されたが、再び、将軍家に献上された。明暦三年(1657)の明暦の大火で焼失して現存していないといわれている。

 

武田信玄と「備前長船景光

 名乗りがまだ晴信だった頃の武田信玄は、駿河平定を祈念して、駿河国一之宮富士山本宮浅間神社に対して社領の寄進、社殿の造営をおこなった。同時に奉納したのが、同神社の宝物として現在に至る「備前長船景光」である。この時、駿河平定は叶わなかったが、後には駿河平定を成し遂げている。

 数多くの名工を世に送り出した備前長船派、中でも名工の誉れが高かったのが景光である。備前長船派は、祖を光忠、その子長光、そして、その子景光と連なる。

 地鉄の肌は、非常に繊細な小板目肌に仕上がり、整った乱れ映りの様が美しい。刃文は豪華な仕上がりの匂出来の直刃調。日本刀独自の造込である鎬造に樋が通してある。反りの中心を柄の近くに置く腰反りの美しさが、見るものを魅了する。帽子は横手上の刃が狭い三作帽子。まさに美と力を共存させた名刀といえるかもしれない。江戸時代に編まれた古美術図録集「集古十種」にこの景光らしき太刀が記載されている。図録集には、金梨子地の鞘と鮫革包の柄が描かれていた。浅間神社の記録にも残っている。だが、現在は散逸してしまって残っていない。

 

上杉謙信と「謙信景光

 武田信玄の好敵手といえば言わずと知れた上杉謙信。偶然にも謙信の愛刀も「備前長船景光」だった。信玄の愛刀は太刀だったが、謙信の愛刀は短刀だった。謙信はこの短刀をことのほか愛用していたため、のちに「謙信景光」と称された。刀身の表には「秩父大菩薩」、裏には大威徳明王を現す梵字が刻まれている。仏教に深く帰依していた謙信らしい一振といえる。拵えは、鎬筋のない平造り、鋒が刀の向きに反る内反り。刃文は緩やかに連続する焼き頭、波頭にも見える片落ち互の目が景光の作を象徴している。鞘は黒漆塗り、縁や鐔には金細工が見られる。慶長になって上杉家が手を加えた痕跡が見られる。鎌倉時代末期の「元享三年三月日」と刻まれている。この年が製作年と思われる。元々、秩父の豪族大河原氏が秩父神社への奉納のため作刀させたと思われる。上杉謙信は、織田信長が怖れるほどの戦上手であり、また刀の収集家としても名を馳せていた。後に謙信、景勝と伝承し、現在は、また秩父の地に戻り、埼玉県立歴史と民俗の博物館に収蔵されている。

 

 

名将の名刀第一章 戦国を駆け抜けた漢(おとこ)達の傍らには

徳川家康と「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキウツスナリ」
 茎に刻まれた銘文「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の意味は諸説があり、確証のある答えはまだない。一説には、所有者の美濃国(現在の岐阜県中南部守護代斎藤妙純が亡き後、縁故者が刀剣の指表(さしおもて)に妙純傳(伝)持と刻んだ。同じ指表に刻まれたソハヤノツルキ(ギ)と指裏に刻まれたウツスナリは、坂上田村麻呂の伝説の刀剣・素早之剣(そはやのつるぎ)を写したとの意味で刀工が刻んだと伝わる。
 刀工は、鎌倉時代中期、筑後国(福岡県南部)の三池典太光世(みいけてんたみつよ)。天下五剣の一振、「大典太光世」を世に送り出した名工である。地鉄には高品質な玉鋼を使用しており、広い身幅の鎬(しのぎ)造。刀身拵えともに古刀の趣を感じさせる。
 元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊家が滅亡し、元和偃武(げんなえんぶ・元和元年のこの戦いを最後に全国的争乱が止んだこと)が定まった。それでも西国諸大名に内在する謀反の火種は燻り続けたままだった。元和二年(1616)四月、死期を覚った家康は、「我亡き後は、ソハヤノツルキウツスナリの切先を西国に向けて立てておくように」と遺言し、幕府と子孫の安寧を名刀に託した。
 当初、家康は駿河国静岡県東部)の久能山に安置された。ソハヤノツルキウツスナリもここに奉納され、社宝として今に伝わる。乱世を生き抜き最終的な覇者となった家康には、この名刀が持つ言い知れぬ力を見抜いていたのかもしれない。現に徳川幕府に約260年もの泰平を永続させ、終には徳川に仇なす者は西国から興った。

福島正則と「福島兼光」
 備前長舩兼光は、南北朝時代前期の備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)を代表する名工である。相伝備前という備前伝本来の作風に相州伝を取り入れたのが特徴である。大太刀などの豪剣を得意とした。初めは、父景光の影響により直刀や片落ち互の目の落ち着いた作風が目立つ。後には、のたれに互の目が混じった優雅な作風に変わった。太刀表には草の剣巻き竜、裏には三文字の梵字が刻まれている。銘は「備州長舩住兼光」「観応元年八月日」。
 この太刀が「福島兼光」と呼ばれるようになったのには次の逸話がある。関ヶ原の戦の勲功により安芸広島の主となった福島正則が藩内にあった日蓮宗本国寺を罰し、寺が所蔵していた兼光を没収し愛刀とした。元和五年(1619)広島城の普請を公儀に対し無許可で行った罪で、安芸備後五十万石を召し上げられた。減封の地・信州川中島まで愛刀を携えていった。
 正則の死後、「福島兼光」はどのような経緯を経てか加賀前田家の所有になった。寛永十二年(1635)、前田家から本阿弥家に鑑定依頼が出され、金十五枚の折紙(鑑定書)がつけられた。現在は、東京国立博物館の所蔵となっている。

加藤清正と「加藤国広」
 堀川国広は、安土桃山時代から江戸時代初期の刀工である。当初は日向国(現在の宮崎県)飫肥城主伊東家の刀工。天正五年(1577)、伊東氏の滅亡により全国流浪の身の上となった。慶長四年(1599)頃より京都堀川一条に居住し、多数の弟子を育てた。居所から堀川国広と称された。堀川派は新刀(慶長元年1596以降に作刀された刀剣)の一大勢力となった。
 国広作の一振が、肥後(現在の熊本県)熊本城主、加藤清正の愛刀になったことにより、「加藤国広」と通称された。板目肌がよく詰まった鎬(しのぎ)造。刃文は大きなのたれが見られ、表のやや棟寄りに「國廣」の二字銘がある。
 清正の娘、八十姫の紀州徳川頼宜への輿入れ時、「加藤国広」は嫁入り道具として紀州徳川家の所蔵となった。その後、紀州藩五代藩主徳川吉宗の徳川宗家相続並び八代将軍職就任により将軍家へ、さらに「加藤国広」の流転は続き、「加藤国広」は徳川宗家から田安徳川家へ受け継がれた。その時期は、享保十四年(1729)九月、吉宗の次男徳川宗武元服従三位 左近衛権中将兼右衛門督の叙任時、もしくは享保十六年一月、江戸城田安門内に田安徳川家の創設時のどちらかといわれている。近代に入り、三井家が田安家より購入し、現在は「三井美術館」の所蔵となっている。

池田輝政と「大包平
 勝れた武勇と卓越した処世観で姫路五十二万石の初代藩主となった池田輝政をして「一国にも替えがたき大名物」と言わしめた名刀、それこそが「大包平」である。姫路城を現在の気品に溢れ、威風堂々たる姿に改修した池田輝政がこの名刀の所有者である。
 刀工は、平安時代備前鍛冶の包平。同じく備前鍛冶の助平、高平を併せて「古備前三平」と称されるほどの名工といわれている。その名声は、平家物語に散見される。
 「享保名物帳」にも「寸長き故名付」と銘の由来が書き記されている。刀身の長さだけではなく名刀中の名刀であることを「大」の文字で表現している。
 輝政は、織田信長豊臣秀吉徳川家康と三人の天下人に仕えた武人らしく刀に対する思い入れも深く、正月の具足始めに「大包平」を飾ることを池田家の習いにした。鎬造で庵棟、猪首鋒になって、反りが高く身幅も広い勇壮な造りになっている。まさに猛将輝政が好む太刀姿である。刀長があるにも関わらず重ねが薄く仕上がっているため重量は1.35㎏しかない。作刀技術の高さの証となるだろう。そればかりか、手に持ち、構えた時に感じる刀身全体のバランスの良さも大名物の大名物たる所以だろう。現在は東京国立博物館所蔵となっている。