さぁ、全て申されませ。玄蕃さま。早魚が、あなた様の苦しみや悲しみの全て背負って差し上げます
承前
小一郎は、早魚(さな)と名乗る女の発する艶麗な色香に逡巡(たじろ)いでしまった。ましてや、女を縁取る彩光に恐怖を感じた。
「俺はどうしたというのだ。頭が可怪しくなったのか…」
早魚の真っ白な指が小一郎の掌をそっと何度も撫でた。撫でられた掌からざわつく快感が小波(さざなみ)のように五体を巡った。小一郎の体は指一本さえ己(おの)のままにならなかった。
「玄蕃さま、お辛かったですね。まだ幼き童(わらべ)が、いかに才を愛でられたとはいえ、他家に仕えるなんて…よくぞ耐えられた。よくぞ頑張りましたね」
小一郎の耳元で囁く早魚の声音が、湯に浸かっているような浮揚感と温もりをもたらした。
「もう頑張らなくてもよいのですよ。もうどこへも行かずともよいのですよ。このまま、早魚の懐でおやすみなさい。あなたがやらなければならぬ事はすべて、早魚がして差し上げます。何をして欲しいのですか。さあお話しくださいませ」
座敷と三和土(たたき)を分ける障子の隙間から宿の主人が成り行きを覗いていた。背後には才賀丸と鷹丸がいた。
「旦那、ありゃすごい薬だぁ。あの侍が飯を作ってる隙を突いてほんの少し汁に混ぜただけだよ。完全に正気を失ってるでな」
「静かにしろ。喋るな」
鷹丸が主人を叱った。にもかかわらず、
「あの薬、わしにも分けてくれよ。あれがありゃ一儲けできる。それとあの侍はどうなるんだ」
才賀丸が刀の鯉口を主人の頭上で切った。
「わかったわかった、もう喋らねぇよ。こっちは銭さえ貰えれば文句はねぇ」
座敷を血で汚さねぇでくれと念押しして主人は出ていった。
座敷では早魚が仕上げにかかっていた。
「さぁ、全て申されませ。玄蕃さま。早魚が、あなた様の苦しみや悲しみの全て背負って差し上げます」
小一郎は、童に戻ったような無垢な口調で、
「俺は…淋しくなんかないぞ…。でも、俺は侍などなりたくは無かった。ただの猟師でよかったのに…」
掌を撫でていた早魚の手が小一郎のうなじを抱き寄せた。
「霞ヶ浦に帰りましょう....全てを投げ捨てて霞ヶ浦に帰りましょう。玄蕃さま」
「でも、俺は…、大殿から御下命を受けたんだよ…。とっても大事なご用なんだ」
「ご下命は玄蕃さまに替わって早魚が果たしますから…教えてくださいませな」
小一郎の耳元で吐息混じりに早魚が囁いた。
(落ちた)と才賀丸も鷹丸も確信した。
早魚(さな)の薬術によって、小一郎が誑(たぶらか)されなんとするほんの半刻(約一時間)前、玄明は煮売屋で久しぶりに酒を遣っていた。肴は豆と大根の煮染。
「宿場はずれに白狐が出たって話、知ってっか」
玄明の脇で街道人足衆がくだを巻いていた。
「なんだいそりゃ、初耳だぜ」
「オラァ聞いたぜ、その話よ。えらい別嬪(べっぴん)な女が侍を探しているって話だよな」
沙魚(はぜ)の塩煮を一匹丸ごと口に放り込み、濃酒(だみざけ)を飲みながら人足の一人が続けた。
「人相書きを見せて来て、こっちが知らないと応えると一瞬で消えるってよ。侍に惚れた白狐が想い人を探してるらしい」
自分の徳利を摘んで、玄明が人足達に躙(にじ)り寄った。
「そんなにいい女かい、その女は。まぁ一杯やってくれ」
「あんたも嫌いじゃないね。見かけない顔だが、旅人(たびにん)かい」
「その女狐を今日は見かけたか」
玄明の問いかけに、男達はお互い顔を見回し首を横に振った。
「目当ての想い人、見つけたんじゃねぇか」
「どうもありがとよ。続きはこれでやってくれ」
男達の前に幾許(いくばく)の金を玄明は置いた。
「あんた、どうした。どこいくね」
男達の言葉に、徳利ごと飲み干した玄明は云った。
「決まってるさ、狐退治よ」
次回ヘ続く
※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ。