日本剣豪ランキング 10位~6位 俺に是非を問うな! 剣技一筋、御意見無用の漢達!!

日本史上に名を遺す剣豪たちをランキング 彼等の生き様に勝者も敗者も無い 在るのは求道者たる究極の生き様のみ とくとご堪能あれ

 

第十位 足利義輝 
 室町幕府足利将軍家といえば、下剋上に悩まされ、時には洛外へ逃走しなければならない危機に何度も直面する武家の棟梁とは思えないていたらくだった。
 その中で、第十三代将軍足利義輝は武門の誉れを放つ将軍であった。剣術は剣聖塚原卜伝直伝の腕前。その腕前が最大限に発揮されたのが、義輝の最期の闘いにおいてだったのは皮肉といえるかもしれない。
 義輝最期の闘いとは、永禄八年(1565)五月十九日に勃発した「永禄の変」で三好三人衆松永久秀足利義輝を弑殺(しいさつ)した事件である。松永久秀来襲を予知していた義輝は、脱出に成功できるにも関わらず、将軍家の権威失墜を潔しとしないとの覚悟で迎え撃った。久秀軍一万をわずか10余名の御所の兵力で挑んで、久秀方数十名を討ち取ったというのだから、阿修羅のごとき闘いぶりである。
 義輝の奮戦の時、手にしていた愛刀が「三日月宗近」だといわれている。天下五剣のうちの一振が、斜陽たる足利将軍家武門の散華となった。

第九位 北畠具教(きたばたけとものり)
 南北朝時代南朝方の名臣北畠顕家(あきいえ)の命脈を継ぐ伊勢国司の家柄に具教は生まれた。天文六年(1537)、公家大名として爵位を授けられ、朝位朝官を歴任。また、戦国大名としても伊勢国(現在の三重県安濃郡の支配者長野工藤氏、紀伊国(現在の和歌山県)の九鬼水軍の頭領の九鬼氏を配下とし、北畠家を伊勢の有力大名とした。 
 永禄十一年(1568)、織田信長による伊勢侵攻に抗うも力足りず、嫡男 北畠具房(ともふさ)の養嗣子として信長の次男織田信雄(のぶかつ)を受け入れざるをえなかった。
 その後も信長との対立は収まらず、天正四年(1576)、信長、信雄父子の策略により一族もろとも殺害されてしまった。
 剣客北畠具教は、剣術を奨励し、伊勢に来訪する剣客を歓迎し保護した。自らも剣術の習熟を目指し、塚原卜伝(ぼくでん)、上泉信綱(こういずみのぶつな)等の錚々たる剣客から伝授を受けた。特に、塚原卜伝からは新当流の奥義を授けられたといわれている。奥義伝授の面目として具教暗殺の手勢相手に十九人を打ち倒し、百余名に手傷を負わせたとの逸話が残っている。また、一説には、逆臣・長野左京亮に刀を細工され、抜刀も出来ぬまま斬殺されたとも云わる。塚原卜伝上泉信綱に教えを受けたほど剣豪大名にとってさぞ無念ではなかったかと惻隠する。

第八位 真柄直隆(まがらなおたか)
 剣豪のイメージといえば華麗な太刀捌きや厳しい修練の末に会得した精緻な技量を想像する。しかし、真柄直隆は、何百何千という兵が戦う戦場で大刀を振りかざし、力でなぎ倒す。いわば、剣豪というより豪傑、戦国の猛将といったイメージである。主人は越前の戦国武将朝倉氏。戦場では黒鹿毛の馬に騎乗し、越前の名工千代鶴国安(ちよづるくにやす)が鍛えた五尺三寸の大太刀「太郎太刀」を振り回して敵を屠ったといわれている。
 室町幕府十五代将軍・足利義昭が、朝倉義景を頼って居城一乗谷に滞在中、御前において「太郎太刀」を数十回も振り回しその剛力を披露した。戦働きでも、元亀元年(1570)、朝倉氏浅井氏連合軍と織田氏徳川氏連合軍が近江国(現在の滋賀県姉川河畔で激突した「姉川合戦」において、敗色濃い朝倉勢を逃がすため単騎徳川勢に切り込んでいった。十二段構えだった徳川方の陣の八段目までも突破したというのだから凄まじい豪傑ぶりである。

第七位 佐々木小次郎 
 剣聖宮本武蔵との対決「巌流島の決戦」で有名な巌流佐々木小次郎だが、彼の生涯については数多くの謎に包まれている。そもそも、彼の実在を疑う向きもある。 世に伝わってきたおよそその見解としては、戦国期末から江戸時代初めの剣豪だと見られている。出自も、越前国(現在の福井県)浄教寺村出身説、豊前国(現在の大分県)田川郡出身説がある。
 富田勢源に中条流を学んだ。十代になると諸国で武者修行し、十六歳で秘剣「燕返し」を体得した。中条流では、主に一尺五寸ぐらいの小太刀を用いるが、長身だったといわれる佐々木小次郎は師匠勢源より三尺余りの大太刀を用いた修練を命ぜられた。
 佐々木小次郎の愛刀といえば、身の丈程もある長剣、通称「物干し竿」といわれた備前長船長光である。この長剣を背負い、肩越しに抜刀し、下段からせり上がるように振り抜く。飛ぶ燕でさえその切先から逃れられなかったことから「燕返し」と名付けられたといわれている。

第六位 近藤勇(いさみ) 
 幕末の京洛の過激派浪士を震え上がらせた新撰組。その新撰組のトップが局長・近藤勇である。
 出自は、多摩の豪農宮川家の三男、幼名は勝五郎。嘉永元年(1848)、天然理心流(てんねんりしんりゅう)試衛館(しえいかん)に入門。翌年には目録、同年十月には三代目近藤周斎(しゅうさい)と養子縁組し近藤勇を称した。
 将軍徳川家茂上洛の際、警護目的のため徴募された浪士組(のちの新撰組)に参加した。副長土方歳三とともに数々の内部粛清を経て新撰組内を掌握した。
 近藤勇の名が天下に知れ渡ったのは元治元年(1864)六月五日の「池田屋事件」によってである。当時の京都には、過激な尊王攘夷派の志士が、全国から集結して来ていた。中川宮暗殺計画の情報を入手した近藤等新撰組は志士捕縛のため池田屋に討ち入った。尊攘派の志士は二十人余り、新撰組は四人、しかも藤堂平助は負傷、沖田総司は喀血により戦闘困難になった。
 後日、この模様を試衛館に知らせた近藤の書簡には自らの愛刀「長曾祢虎徹(ながそねこてつ)」の頑強さと切れ味の良さが書き込まれている。