かすみを救ってくれるなら、俺の命などいつでも殺(と)ってくれ。お願いだ、助けてくれ。
承前
再びの曳間宿
かすみが木賃宿を出ていってから丸一日が経っていた。小一郎と玄明(重蔵)が押し黙った夕餉の後、小一郎は二組の布団を敷いた。
本来ならば今朝、曳間を出て遠江から三河(愛知県東部)に入っている筈だった。二人は出発を先延ばしにしていた。お互い口には出さないが、万が一のかすみの還りを待っているのだった。
柱を背にし、忍刀を抱え込んで座って微動だにしない玄明の闇を凝視する黒目には、窓から射し込む月光が反射していた。
小一郎も横臥はしているが、寝られないのは、玄明と同様だった。かすみを力尽くでも引き留められなかったのを悔やんでいる男二人はまんじりともせずにいた。
「決めたよ……。播磨にはお前独りで行ってくれ。小一郎」
「フッ、そうだと思っていた。だが、いくらお前が手練れでも独りじゃ無理だ。俺に助太刀させろ」
「気持ちは有り難いが、お前には赤松殿に書状を渡し、返事を持ち帰るという大殿からご下命があるではないか」
闇に融け入る特有の忍び音で玄明が云った。
「後先で同じさ。才賀丸は俺を播磨に行かせる訳に行かない。俺達を仕留めるまで何度でも襲ってくるはずだ。今やるか先でやるかの違いだ」
「なら俺がやる。お前は武家だ、君命を第一義にしろ。俺は流れの乱破だ」
「俺とお前が別々に闘うより二人がかりで闘う方がずっと有利だとおもわないか。重蔵」
「…とんだ阿呆だな、結城玄蕃友成殿は…」
「兄貴のお前の前で言っちゃなんだが…かすみ殿はとんだ別嬪だな。男はいい女の為なら余計な格好をつける生き物よ。動く里芋みたいな面体のお前と同じ血が流れてるとは信じられん」
殊更朗らかな口調で小一郎が返した。
「と云ってもかすみ殿の所在がわからん」
「シッ… 人の気配が…戸の前で…」
玄明は戸口ににじり寄り外を窺った。素早く刀を引き寄せた小一郎が、燈明を吹き消した。
「お助けくださいませ。どうかお助けを…」
絞り出した声がやっと聴こえた。聞き覚えのある声だった。引き戸越しに玄明が、
「お前、才賀丸とこの若造か…」
「はい、鷹丸と申します。どうかお助けを」
眼色で警戒を小一郎に促し、玄明は戸を三寸程開け、鷹丸に問うた。
「お前、ひとりか…かすみは一緒ではないのか」
「そのことでお願いがございます。かすみを助けてください。お願いいたします」
「子細を話せ」
玄明が命じた。
鷹丸の身体が一間は吹っ飛んだ。戸外まで飛んだ鷹丸に馬乗りになった玄明が何度も何度も殴り続けた。鷹丸は一切抗わず殴られるに任せていた。
「重蔵…殺す気か…それ以上やるとこいつ死ぬぞ」
玄明(重蔵)を羽交い締めにした小一郎が玄明を引きずって離した。
「小一郎、お前に何がわかる…こいつ等がかすみに何をしたか…何をさせたか…」
「お前の怒りと悲しみがわかるなど薄っぺらい口を叩くつもりなど無い。だが、今一番やらなきゃならないのがなにかはわかる。頭を冷やせ」
「かすみを救ってくれるなら、俺の命などいつでも殺ってくれ。お願いだ、助けてくれ」
地べたに平蜘蛛のようにへばりついた鷹丸が泣き叫んだ。
「わかった、今回だけは信じてやるよ。人の為に地べたに這いつくばれる奴はそうはいない。話を聴いてやる、いいよな…重蔵」
「勝手にしろ。だがな、俺は信じてない」
「鷹丸、中に入れ、策を練る。聴きたいことも山ほどある」
小一郎が鷹丸を招じ入れた。
次回ヘ続く
※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ。