名将の名刀 第二章 名将と名刀は義友(とも)と宿敵(とも)によって研かれた。石田三成と大谷吉継の友諠、石田正宗と包丁藤四郎   武田信玄と上杉謙信の情誼、備前長船景光と謙信景光

石田三成と「石田切込正宗、もしくは石田正宗」

「石田切込正宗」の名称は、石田三成が所持していたこと、刀身にある数ヶ所の切れ込み痕に由来する。

 刀工は、鎌倉末期の相模国(現在の神奈川県西部)鎌倉の人、岡崎五郎入道正宗といわれている。徳川吉宗の命によって書かれた「享保名物帳」によると、宇喜多秀家が森若狹守から四百貫(約六千万円)で買い、石田三成に贈答した。豊臣秀吉が没すると、加藤清正等の武断派七将が三成を襲撃する事件がおこった。あろうことか三成は伏見城の政敵徳川家康に助けを求める。家康は、次男・結城秀康に護衛を命じ、三成を佐和山城まで送らせた。三成は、その礼としてこの刀を秀康に送った。秀康は「石田正宗」と名付け愛刀とした。秀康の死後、作州津山藩松平家へ伝承された。

 作風は、鎬(しのぎ)造で庵棟(いおりむね)、反りが高く、身幅は細目。切先は中切先である。元は長大な刀身であったが、茎の銘字が見えなくなるほど切り詰められている(よって無銘)。これを大磨上(おおみがきあげ)と呼ぶ。鍛えは板目約み、平地には砂地のような地沸が入り、線状に青黒い地景も見て取れる。刃紋は互の目刃交じりで金筋と砂流しが入っている。沸の美しさが際立つ相州伝の作風であるが、互の目が目を引き、刃縁が締まりごころな一振といえるかもしれない。

 

大谷吉継と「包丁藤四郎」

 身幅が広く、包丁に似ているところからこの短刀は「包丁藤四郎」と呼ばれている。刀工は、鎌倉中期、山城国(現在の京都府中南部)粟田口派の名工・粟田口藤四郎吉光である。吉光は「包丁藤四郎」のような短刀を得意とした。「享保名物帳」の消失部にある「包丁藤四郎」と同一物か別物かで議論されてきたが、「駿府御分物刀剣元帳」の発見により、現存刀は「御家名物」として伝来してきたと判明した。

 この短刀は、関ヶ原の戦場に病を押して出兵し、三成との友誼に殉じた義将・大谷吉継の佩用の短刀だった。戦役後、家康が入手したと思われる。駿府御分物(徳川家康の形見分け品)として、尾張徳川家の所蔵品となった。

 刀身は、平作り、庵棟、裏表の刀樋に連樋がある。その連樋は研ぎ減って微かにしか残っていない。差表元にはふくれ破れが確認される。茎には目釘孔が三つあり、尻近くには「吉光」の二字の銘が見て取れる。刃文は直刃に小乱れが交じり、刃縁に小沸が入っている。「享保名物帳」の消失部に記載されているもう一つの「包丁藤四郎」は徳川秀忠から紀州家徳川頼宜に下賜されたが、再び、将軍家に献上された。明暦三年(1657)の明暦の大火で焼失して現存していないといわれている。

 

武田信玄と「備前長船景光

 名乗りがまだ晴信だった頃の武田信玄は、駿河平定を祈念して、駿河国一之宮富士山本宮浅間神社に対して社領の寄進、社殿の造営をおこなった。同時に奉納したのが、同神社の宝物として現在に至る「備前長船景光」である。この時、駿河平定は叶わなかったが、後には駿河平定を成し遂げている。

 数多くの名工を世に送り出した備前長船派、中でも名工の誉れが高かったのが景光である。備前長船派は、祖を光忠、その子長光、そして、その子景光と連なる。

 地鉄の肌は、非常に繊細な小板目肌に仕上がり、整った乱れ映りの様が美しい。刃文は豪華な仕上がりの匂出来の直刃調。日本刀独自の造込である鎬造に樋が通してある。反りの中心を柄の近くに置く腰反りの美しさが、見るものを魅了する。帽子は横手上の刃が狭い三作帽子。まさに美と力を共存させた名刀といえるかもしれない。江戸時代に編まれた古美術図録集「集古十種」にこの景光らしき太刀が記載されている。図録集には、金梨子地の鞘と鮫革包の柄が描かれていた。浅間神社の記録にも残っている。だが、現在は散逸してしまって残っていない。

 

上杉謙信と「謙信景光

 武田信玄の好敵手といえば言わずと知れた上杉謙信。偶然にも謙信の愛刀も「備前長船景光」だった。信玄の愛刀は太刀だったが、謙信の愛刀は短刀だった。謙信はこの短刀をことのほか愛用していたため、のちに「謙信景光」と称された。刀身の表には「秩父大菩薩」、裏には大威徳明王を現す梵字が刻まれている。仏教に深く帰依していた謙信らしい一振といえる。拵えは、鎬筋のない平造り、鋒が刀の向きに反る内反り。刃文は緩やかに連続する焼き頭、波頭にも見える片落ち互の目が景光の作を象徴している。鞘は黒漆塗り、縁や鐔には金細工が見られる。慶長になって上杉家が手を加えた痕跡が見られる。鎌倉時代末期の「元享三年三月日」と刻まれている。この年が製作年と思われる。元々、秩父の豪族大河原氏が秩父神社への奉納のため作刀させたと思われる。上杉謙信は、織田信長が怖れるほどの戦上手であり、また刀の収集家としても名を馳せていた。後に謙信、景勝と伝承し、現在は、また秩父の地に戻り、埼玉県立歴史と民俗の博物館に収蔵されている。