叛乱 結城合戦 第11話

 先程は誠にありがとうございました。わたくしの名は早魚と申します。不躾とは存じましたが、も一度の御礼をと思い罷り越しました

 

 

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 遠江国静岡県西部)曳間乃宿(浜松市


 丘陵の向こうに浜名の湖(うみ)が見下ろせる祝田坂(ほうだざか)の高見に馬を止めて黄昏の湖の遠景を小一郎は見ていた。

 落陽に目を細めている小一郎に玄明が、

「懐かしい風景かい、小一郎。水のある風景はどこも似ているからな」

 結城を出立して八日、最初は玄蕃(げんば)殿、次は玄蕃、今はもう小一郎と玄明は呼ぶ。

 大層な玄蕃友成より通称の小一郎と呼ばれる方が身の丈に合ってしっくりくる。

「重蔵も霞ヶ浦香取育ちだから懐かしさはお互い様だろ」

 今の玄明は筑波山神社に身を寄せる神人(じにん)だが、元は霞ヶ浦南方に鎮座する香取神宮重代の神人だった。重蔵は玄明の通称だ。

「今夜は屋根の下で眠りたいな、重蔵」

「ああ、二夜続けての野宿は勘弁だ」

 室町中期のこの時代に現代の旅館のような至れり尽くせりの宿泊施設などない。

 この頃の旅人はどのように宿泊していたのか。

 大名や公家の上流階級は、寺社仏閣に喜捨し寝食の提供を受ける。または、在所の領主に頼み、間借りする。では、小一郎くらいの分限の武士や商人などの庶民はといえば、「木賃宿(きちんやど)」という掘立て小屋に夜具と竈があり、食料は自弁で薪代(木賃)を主人に支払う宿泊施設を利用した。木賃宿にしてもある程度の規模の宿場にしかない。結果、大概は野宿か、良くて廃屋や廃れてしまった寺社で寝ざる得ない。

 ちなみに、現代旅館の原型で食事の提供もする「旅籠(はたご)」が出現するのは、五街道が整備された江戸期である。

「一足先に曳間に行き、俺が宿を押さえておく、後から来いな、重蔵」

 小一郎が先に騎乗する。

 次いで、玄明が馬に跨った。馬首を曳間宿に続く下り坂に振り向け小一郎が先を、玄明が後に続く。

 祝田坂から曳間まではおよそ十町(約一キロ弱)ある。


「あれは…うめき声ではないか」

 曳間にあと数町と迫った時、短く繰り返される呻き声を小一郎は聞いた気がした。

「たしかに聞こえた。右の藪の奥から聞こえた」

「ちょっと様子を見てくる」

「御節介な事を…土地の若い者の乳繰り合いに決まっておる」

 玄明がこぼした。

 馬の手綱を玄明に預けて小一郎が藪に歩を進めた。

 藪に分け入った小一郎が見たのは藪の下草から伸びたあがく脚だった。口をもう塞がれてしまったのか、声はもう無くせわしない呻きが洩れている。

「下郎、止めよ」

 女に覆い被さっている男の頸筋に刀を当てた。

 猿のような身軽さで跳ね起きて

「待った待った…止めるから待ってくれよ。お侍…」

「とっととうせろ。」

 十分の距離を空けてから男が、

「俺の代わりにオメェが愉しむんだろうがよ。カッコつけてんじゃねぇ」

 当たらないよう狙って小一郎は小柄を放った。

 頬のすぐ脇の木の幹に小柄が刺さると、男はもう悪態もつけずに逃げ去った。刺さった小柄を引き抜き鞘に納めた。

「もう安心だ、出てこい」

 下草と土埃にまみれた女が藪から這い出てきた。乱れた着物の胸元を掻き寄せながら

「あやういとこ、ありがとうございます」

「怪我はないか。観たところ大事はなさそうだが…いかがか」

「はい、お陰様ですり傷くらいかと…、お礼の言葉もございません。」

 玄明は女を一瞥したが、直ぐ目で急ごうと催促してきた。

「なら良い。そなた、ずいぶんと土埃にまみれておるぞ。早く帰り汚れを落とした方がよいぞ。こちらは早く曳間で宿を取らねばならぬので先を急いでおるのだ」

「せめて御名前だけでも…」

 玄明から手綱を受取り、騎乗してから、

「名乗る程の身分でもない。この在の者か、何れにせよ、気をつけて行かれよ」

 二人は、緩慢な坂をまた下り始めた。小一郎は、万が一と思い、後ろを振り返った。女はまだ深々と頭を下げたままだった。下郎の姿はもう無かった。

「薄汚れたなりをしていたが、あの女…、きづいていたか、小一郎…」

「…」

 玄明の問いの意味を計りかねていた小一郎に小さな溜息を点いた玄明が、

「軍略にあれほどの才器を備えた男が、男女の途(みち)にはオボコいかぎりだな」

「余計なお世話だ。少なくとも今はそれどころじゃないだろ。今この時にも結城は危機に面しているかも知れない」

「ハイハイ、そうだな。だが、石部金吉の小一郎殿に教えてやるよ。今の女、かなりの美貌だぜ。磨けば皓(ひか)る珠(たま)だよ。火がついちまったぜ。曳間に着いたら俺は煮売りでも出かけて一杯やってくる。宿は任せた」

勝手にしやがれ、目印に白切れを格子に結んでおく。」

(コヤツ、今夜帰って来る気は無いな)と小一郎は思った。


 宿で一人分の夕餉を支度し、独りで食べ終わった頃、小一郎に来客だと宿の主人が告げた。

 この地に見知りが居るはずもない。さては、結城からの急使か、いや、小一郎がこの宿いるまでは結城が知る由もない。

「案内するかい…それとも断っちまうか…どうするよ」

「どんな奴だ…」

「どんな奴だなんて、勿体ない言いようだよ。若いのも隅に置けないぜ。今来るからよ」

 薄ら笑いを浮かべた主人が、勝手に向かって、

「お会いくださるとよ。入っといでな」

「おい、俺はまだ会うとは言っとら…」

 言い終わらぬ間に、袖に浅蘇芳(あさすおう)の紅葉が散った瑠璃紺(るりこん)地の小袖を纏った女が小一郎の前に着座した。

「んぞ……そなたは…先程の…うーと」

 玄明の言葉は確かだった。

 さっきまで土埃に塗れてた女と同じ女とは思えない美しさだった。しかも、一抹の妖しさのある秀麗。その変化(へんげ)は、さながら玉藻乃前(たまものまえ)の如くであった。

「先程は誠にありがとうございました。わたくしの名は早魚と申します。不躾とは存じましたが、も一度の御礼をと思い罷り越しました」

次回ヘ続く

 

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ