叛乱 結城合戦 第9話

 この樹は翌檜(あすなろ)という樹だよ。翌日には檜(ひのき)に成りたいと願った名前。念願を叶えたい我ら兄弟もこの樹と同じ。我らは明日成ろだね。

小山広朝の安堵

 

 足利朝氏の初陣は見事に果たせたが、目的の小山広朝妻子の救出はできなかった。

 しかし、直後に幕軍の総大将上杉憲実の使者が来城し、口上を述べた。

「小山広朝殿の御妻子は、小山家累代の菩提寺天翁院(てんおういん)にて丁重に遇しております。また、このたびの戦の如何を問わず広朝殿御正室と御嫡子広成(ひろなり)殿の身の安全は関東管領の名において保証するとの御意向でございます」

 加えて使者は、口上と同趣旨の上杉憲実の花押の入った念書を差し出した。

 城内大広間で口上を聴き、念書を手にした小山広朝の安堵とそれをひた隠そうとする複雑な表情を見て、持朝は不謹慎にも噴き出しそうになった。

「なにはともあれ、叔父上、ひと安心です。祝着(しゅうちゃく)でございます」 

 持朝の言葉に広朝の口の端が微かに緩んだ。

 使者を見送ったあと、大広間にいる結城一族と主だった家臣にも一様の安堵が流れたのだった。

 

永亨十二年(1440)九月 結城城 

 

 関東諸将によって編成された結城討伐軍が結城城を攻囲して早や半年が経とうとしていた。その間、まともな戦は、朝氏が初陣を飾った鬼怒川河畔の戦だけだった。

 月に二回程、攻城軍から矢を射かけてくる。まるで、京の将軍足利義教に対する義理事としか思えない形ばかりの攻撃であった。

 放った乱破の報告によると主戦派は、現関東管領上杉清方、駿河守護今川義忠、信濃守護小笠原政康の三武将に過ぎない。三武将の立ち位置を考えると彼等の思惑が透けて見える。

 清方とすれば、現関東管領といえ実権は未だ兄上杉憲実に握られている。結城討伐軍総大将にしても筋目なら現関東管領の清方が推戴されるべきなのだ。清方としては、ここで目覚ましい戦果を挙げ、室町将軍家を後ろ盾として名実ともの関東管領にならねばならなかった。

 また、今川義忠、小笠原政康等は華々しい戦功を足がかりに関東(関八州)への進出を目論んでいた。

 今川義忠の領国駿河静岡県東部)と小笠原政康の領国信濃(長野県全域)は、関八州に含まれない。

 

関八州とは、

相模 (さがみ) ・神奈川県中部西部

武蔵 (むさし) ・埼玉県、東京都、神奈川県東部

安房 (あわ) ・房総半島尖端

上総 (かずさ) ・千葉県南部

下総 (しもうさ) ・千葉県北部

常陸 (ひたち) ・茨城県全域、結城は常陸国に含まれる。

上野 (こうずけ) ・群馬県全域

下野 (しもつけ) ・栃木県全域

の八か国を指し、後に甲斐(山梨県全域)と伊豆(伊豆半島)が加えられる。

 室町幕府開幕以来、関八州の統治は鎌倉府が専権し、棟梁は鎌倉公方足利氏であった。鎌倉公方家が滅亡した現在、関東の大名、国人、土豪の切り取り放題の草刈り場になりつつあった。ただ、早急に乱世にならないのは、結城氏討伐が遅々として進まないのと同じ内幕があると結城氏朝は考えている。

 

「どうにも解せませぬな。あれだけの兵を擁しながら、なぜに管領軍は攻め寄せて来ないのか…のう、兄者」

 氏朝の舎弟で譜代の重臣である山川家の養子となった山川常陸介氏義(ひたちのすけうじよし)が、城門警護の上番交代の申次評定の席でボソリと云った。

「それはな、関東管領殿の為に命は捨てれんのよ、関東武士は…」

「もっと分かり易う云うてくれ。わしは兄者みたいに利口じゃないでな」

 氏朝の次弟で軍師格の勘解由久朝(かげゆひさとも)が受ける。

関東管領は関東武士の盟主であるが、主君ではない。主君の為には死ねるが、盟主の為には死ねない、武士とはそんな生き物だ」

「とは…」

常陸介、お前というやつは…察しが悪いな。道理のわからぬ奴じゃ」

「わしが二の兄者のように利口なら家臣に養子やられんわ」

「御所様の御前じゃ、久朝も氏義も大概にせよ」

 氏朝が、次弟と三弟をなだめる。そして、上座の朝氏に一礼したのちに、

等持院足利尊氏)様の開幕以来およそ百年、東国武士の胸中には、鎌倉府に対する畏敬と鎌倉公方家への忠義心が染みついているのだ。理屈ではない。これは習性(さが)だ。御所様が鎌倉公方の名乗りを挙げた以上、幕軍の将兵の心中に御所様が籠もる結城城を攻めるのに躊躇が生じた。分かったか、氏義」

 氏朝の思料に、もう一つの筋道があった。十中八九、間違いはないと思うが確証が無いので口にしないのだが…

(上杉憲実は予見しているのだ。足利義教の圧政の終焉を…)

 足利義教の苛烈な幕政は、そもそも室町幕府の政体に馴染まない。三管領四職等の有力守護大名の合議制こそが基本原則の政体である。

 鹿苑寺(ろくおんじ)殿(足利義満)の治世には、一時的な将軍独裁もあった。しかし、それは時期もあったろうが、何よりも足利義満なる人物の個性と器量に依った。義満に匹敵する器量が足利義教には無い。無理は必ずや破綻を招く。

 破綻した後、東国をまとめる旗頭は、鎌倉公方しかありえない。そのために朝氏達三兄弟を温存しておきたいと上杉憲実は考えている。氏朝は憲実の腹の中をそう読んでいるのだった。老獪だが、どっちも就かずの憲実のヌルさが今日の関東混乱の一因になってもいると氏朝は考えている。

 そう、上杉憲実という男は、永遠の保留者なのだと…。

 

明日成ろの三兄弟


 結城城内の朝氏達三兄弟の居館の庭に一本の翌檜の巨木が立っている。巨木がいつからあるかは、氏朝をはじめ結城城の者さえ定かでなかった。ただ、城下の古老の話によれば、昔はもっと沢山の翌檜が聳えていたが城普請の度、一本、また一本と伐り倒されていったらしい。

「今日はこれくらいで終わりしてはいかがでしょう」

 冷たく乾いた日光颪(おろし)が強くなりはじめる結城の秋、足利朝氏と結城持朝は顎から汗を滴らせながら木刀を構えている。

「まだまだ、七郎殿はもうお疲れか。せめてあと一本の手合せを」

「なにを戯言…御所様こそ、もう肩で息をしているではないか」

 朝氏の太刀さばきは、武家の奥育ちにしては野趣があり、筋も良いと持朝は感じている。流浪の間、湯浅五郎を相手に稽古していたのであろう。

 湯浅五郎と田中三郎も木刀を構えて持朝達と一緒に稽古をしている。

「兄上ー、兄上ー、夕餉(ゆうげ)の支度が整いましたよー」

 館(やかた)を繋ぐ回廊から安王が呼びかける。

 安王の背後には永寿王を背にした大井持光(もちみつ)がいる。

 日焼けで真っ黒な顔、声も大きく、常に笑顔を絶やさぬ男持光は、野性味溢れる風体ながら信州佐久郡のれっきとした領主である。

 永享の乱で孤児となり、頼ってきたまだ三歳の永寿王を損得抜きで庇護した。信濃守護小笠原政康の度重なる追及にも知らぬ存ぜぬでシラを切り通した。

 この春、春王安王達が日光山を下りたとの伝聞を聞くや、後事は一族郎党に託し、目立たぬ様、持光一騎のみで五歳の永寿王を背負い、雪まだ残る碓氷峠を越えて来た。

 誠にあっぱれなる武士(もののふ)である。

「ねぇ三郎、この大きな樹は杉なの」

「安王様にとって大きな樹は皆んなが杉ですね、まったくもう、アハハ」

 汗を拭き拭き、安王の目の高さまで屈み、安王の鼻先を三郎がチョイと摘む。


「この樹は翌檜(あすなろ)という樹だよ。翌日には檜(ひのき)に成りたいと願った名前。念願を叶えたい我ら兄弟もこの樹と同じ。我らは明日成ろ三兄弟だね」

 そう語る朝氏の傍らに安王と永寿王が並んで翌檜を見上げた。


 阿見小一郎改め、結城玄蕃友成(げんばともなり)が、玄明を伴に播磨(はりま、兵庫県南部)に向け旅立ったのは、三兄弟が翌檜を見上げた五日後だった。


次回ヘ続く

 


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ