海原の渚が、突然裂けた。黒い塊が飛び出し、その塊はかすみが括りつけられている丸太に取り付いた。
小一郎と獅子丸の身動きが取れない睨み合いが続いている最中、玄明と才賀丸は……
「才賀丸、いよいよ決着だな」
「あぁ、そうよな…玄明、お前とは敵になったり、味方になったりしながらの腐れ縁だった…だが、これだけは云える。一度たりともお前を仲間などと思ったためしはなかった。いつか、この手で引導をと考えておったよ」
才賀丸は、偃月刀の刀部を被った熊皮の鞘を払いながら云った。
「谷底では不利だろう、ここまで上がってこい。上がるまで待ってやる。掛値無しで決着だ」
玄明は水際に陣取る才賀丸を自分が立つ高みに招じた。
「甘いぞ、玄明。その手には乗らぬ。守るに有利な水際を離れぬ。早魚(かすみ)を救けたくば、おまえが降りてくるがいい」
「やはりな、乗らぬよな。仕方ねぇ、なら始めよう」
忍刀を大上段に構えたまま、玄明は砂丘を駆け下りた。
才賀丸は、三国志の英傑関羽雲長ばりに偃月刀を頭上で大旋回させて待ち構えた。
指呼の間まで近づいた玄明に向かって偃月刀を横に薙ぎった。
あわや腹を屠られるほどの皮一枚の間合いで偃月刀をかわし、玄明は跳ねた。そのまま玄明は才賀丸の顔面に取り付き、才賀丸の鼻梁に渾身の膝打ちを蹴り込んだ。玄明の膝頭に才賀丸の鼻の軟骨が砕けた感触が伝わった。
「やるのぉ、玄明。俺の体から血を流した奴もかつてはいたが、そいつはその場で切り刻んでやった」
溢れる鼻血を手甲で拭いながら冷笑(せせらわら)った。常人なら耐え難い痛みの筈なのに…
(こやつ、やはり薬を飲んでやがる…)玄明は後に跳び下がり、才賀丸の二の太刀に備えた。
刹那、才賀丸の偃月刀が、玄明の頭上に振り下ろされた。玄明は更に跳び下がった。
「つくばねの御大将よ、逃げてばかりではないか。結城に飼われて腑抜けたか」
玄明は汀(みぎわ)沿いに西に駆けた。軌を一にして才賀丸が追った。次から次へと振り下ろされる偃月刀を玄明は寸身で逃れた。その危うさは多分に挑発的だった。
かすみが縛られている丸太から西へ十間(約20メートル)程離れたとき、
「小一郎っ、今だ…合図を吹けぇ……」
玄明は砂丘の天辺で獅子丸に相対する小一郎にありったけの声量で叫んだ。
獅子丸など意に介さず、懐から小竹の笛を摘み出した小一郎もありったけの肺量で吹き鳴らした。
「ピィ… ピィ… ピィ… 」
乾いた高音が海原遠くまで一直線に鳴り響いた。
途端、海原の渚が、突然裂けた。黒い塊が飛び出し、その塊はかすみが括りつけられている丸太に取り付いた。
「…鷹丸…鷹丸」
かすみが喘ぐように鷹丸の名を繰り返した。
「今助ける。かすみ動くなよ…」
鷹丸が、かすみの小太刀で縛りの綱を手際よく切っていく。
正気を無くしていたかすみの体に生気が漲(みなぎ)った。縛めが解けたかすみは鷹丸に飛びついた。
「さぁ、行こう」
抱きとめた鷹丸がかすみに云った
「行こうって…どこへ…」
「結城城だ」
云うなり鷹丸は駆け出し、かすみが鷹丸を追った。
「水遁(すいとん)術かっ、小癪な真似しやがって」
才賀丸が急ぎ、二人を追うため戻ろうとした。ニヤリと笑った玄明が、大上段に忍刀を構え、その行く手を塞いだ。
「いけえぇ 鷹丸、かすみは任せたぞぉ…そのまま結城まで走れぇ…」
才賀丸の動きを眼力で制し、振り返りもせず玄明は怒鳴った。
かすみは心残りな様子を見せたが、鷹丸に手を引かれ、ふり返りふり返り砂浜を走った。
「発端(はな)からの手筈か…、我等が海を背にしなければどうするつもりだった。若僧…」
獅子丸は油断なく腰を落としたまま尋ねた。
「才賀丸は利口な男さ。策が分かる奴なら必ず海を背にする。その利口さがつけ目だ」
「若僧、とんだ策士だな。中務殿(結城氏朝)は良い家臣を持たれたものよ。…貴様の様な若いものが沢山いるとしたら、結城合戦の先行きも面白くなりそうだの。さてとこちらもそろそろ始めるようぞ」
そう云った獅子丸が一段と腰を落とし押し出してきた。小一郎は手槍を引き絞り、左前半身に構えた。
獅子丸は、足首まで砂に埋める摺り足で間合いを詰めてきた。
その出足めがけて小一郎が斜に穂先を突き出した。
旭光が一閃、小一郎の羽織の右袖が大きく斬られて垂れ下がった。
羽織の裏地に鞣(なめ)した鹿革を縫い込んで無ければ、一太刀で胴まで両断されていたに違いない。
旭日を反射させた刀身は既に鞘に納まっていた。
(なんとかして刀を抜きままにしなければ、あの居合の達人には敵わない)と小一郎は悟った。
ふと思い立って、腰にぶら下げた水が入った竹筒の栓を口で開けた。額に巻いた鉢巻を解き、鉢巻に竹筒の水を十分しみこませた。
手槍を砂に突き立て、びしょ濡れの鉢巻を両手でしごいた。
「貴様、なんのつもりだ。濡れた布切れで闘うつもりか。利口か馬鹿かわからない男だな」
再び獅子丸の腰が下がった。
濡れ鉢巻の両端を握り直した。
砂上すれすれに刀身が滑った。あわやふくらはぎを断たれるかと思われる一瞬、刀身を飛び越えた。返しの刃が鞘に戻るため小一郎の眼前を過ぎていく。その刀身に濡れ鉢巻をを絡みつかせた。たかだかの濡れた木綿が白蛇のように刀身に絡みつき鞘に納めさせなかった。
呆気に取られた獅子丸は棒立ちとなった。
鉢巻を力任せにこっちへ引いた。絡め取られた刀身が小一郎の足元に転がった。
「まだやりますか…それとも…」
「よく考えたな。若僧…いや、結城玄蕃友成殿、降参だ」
獅子丸は、全く悔しげな風情を見せず、砂に座し首を差し出した。
「さぁ、斬れ。悪党稼業にも飽きていたのだ」
「お名前をお聞かせください」
しばしの躊躇があり、
「江戸格之進だ」
「江戸殿…すると、水戸城主の江戸様の御一族…」
「つまらん事をそれ以上訊くでないわ。さぁ斬れ」
「斬りはしません。その代わり、その剣の腕、結城にお貸しくださいませんか。格之進殿」
ゆっくりと立ち上がり、格之進は刀を鞘に納めた。
「合力は約束はできぬが、結城の様子を観には行こうかの」
さも物見遊山にでも行くかのような気軽さで砂丘を降りて行った。
(なんとまぁ…)変わり身の早さに小一郎は驚いた。
「だが、これからおとずれる乱世には、あのような男が増えるのだろうな」
小一郎は呟き、玄明の加勢するべく砂丘を駆け下りた。
忍刀の玄明と偃月刀の才賀丸が互いの隙を窺って動かない。
太陽はすっかり昇りきって、もはや旭日とは呼べない。
かすみと鷹丸の姿は砂丘の遥か東方の点となっていた。
昨夜、小一郎が書き渡した書状を持って結城城に辿り着きさえすれば、大殿(結城氏朝)は彼等を迎えるなり、もしくはさらなる安住の地へ送り出してくれるはずだった。
「獅子丸は逃げたぞ。もうお前一人だ。だからって手は抜かねぇけどな、今までの悪行、特に俺の妹の恨み、キッチリ晴らさせてもらう。おまえを生きて砂丘は出さない」
玄明が急に構えを解いて棒立ちになった。