それでも敢えて云いたい。私たちは、困難を克服し、互いの信頼関係を構築し、手に手を取って未来へ進んでいけると。
反乱に関する一愚考
本稿は、史実を元に記述していますが、多種多様な諸説学説がある事は否めません。読者諸賢におかれましては、筆者の私見である事をご賢察いただけますようお願いいたします。
かすみ編が悲劇的とは云え、なんとか終幕できたところで、筆者が常日頃から、いや、歴史に興味を持ち始めた小学生だった頃から疑問に思っている歴史用語について考察したい。
結城合戦を語るにあたり、何かが奥歯に引っかかっているような違和感が消えない。
それは、日本史における反乱もしくは、武力による現状変更を表わす言葉の多さとその使い分けである。なぜ、これほど多様な言葉があり、使い分けなければならなかったのか?
例を挙げるなら、
乱
変
役
陣
合戦(戦い)
事変
戦争
まさに多種多様と云えまいか…その上、戦いの型式で使い分けがされている。
本稿では、上記の中で特に重大事件に付される「乱」「変」「役」を取り上げたいと思う。
ちなみに、英語で反乱を表わす単語は、
rebellion
revolt
uprising
上記の三つしかない。しかも、その意味の分別は曖昧である。強いて使い分けするならば、戦闘の規模により使い分けだと思える。
rebellionは、反乱全般を指す。
revoltは、一揆、暴動のような小規模な反乱を指す。
uprisingは、蜂起、反抗のような更に小規模で偶発的非組織的な反乱を指す。
言葉は通じればそれでもう良いではないかという大陸的な鷹揚さ、それはそれで筆者は好きである。
雨を表わす言葉だけでも何十種もある日本語、大雑把な質の筆者にとって
「五月雨だって雨でいいじゃん。日本語、細かいよ」
と云いたい時もある。
さて本題に戻そう。日本史上の反乱である。
「乱」は最もポピュラーな表現である。
磐井の乱
古墳時代(継体二一年・527年)筑紫ノ君(北部九州を席巻する地方豪族)磐井による大和朝廷に対する反乱
承平天慶の乱
平安時代(承平~天慶年間、931年〜947年)、平将門と藤原純友が関東と瀬戸内海でほとんど同時に朝廷に対して起こした反乱の総称
島原の乱
江戸時代(寛永十四年〜十五年・1637年〜38年)、肥前(長崎県)島原と肥後(熊本県)天草一帯で勃発した天草四郎(益田四郎時貞)を盟主としたキリシタン及び浪人、農民の徳川幕府に対する反乱
大塩平八郎の乱
江戸時代(天保八年・1837年)、大坂において、大坂元東町奉行所与力(現代なら大阪府警の元高級幹部)であった大塩平八郎と彼が主宰する私塾洗心洞の塾生が、汚職役人と私利私欲に走る商人を襲撃し、天保の大飢饉で困窮した民衆の救済を目指した徳川幕府に対しての反乱
ここに列記した「乱」達には一つの共通点がある。それこそが「乱」の「乱」たる由縁と云える。
その共通点とは、
被支配者(被支配階層)による支配者(支配者階層)に対する大規模な武力打倒行為である。
具体的には朝廷や幕府の現政権の武力打倒が「乱」の真骨頂である。
ただし、何事も例外があり、「壬申の乱」「保元平治の乱」「応仁の乱」の支配者階層同士の争乱も「乱」と表わす。
それは大規模な争乱、かつ、乱の前後で政権の支配体制に大変革があり、「乱」と呼ぶ以外なかっただろうと筆者は愚考する。
「乱」に似て使われる表現に「変」がある。
長屋王の変
奈良時代(天平元年・729年)天武天皇の皇孫、時の左大臣長屋王の排斥を目論み藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が実行した政変。長屋王は自死。
永禄の変
室町時代(永禄八年・1565年)室町幕府第十三代将軍足利義輝を三好義継、松永久通(松永久秀の嫡子)等が襲撃した政変。足利義輝は弑殺(しいさつ)された。
本能寺の変
安土桃山時代(天正十年・1582年)天下統一目前の織田信長が、洛中の本能寺において家臣明智光秀に謀反された政変。織田信長は自刃。
禁門の変(蛤御門の変)
幕末時代(元治元年・1864年)過激派公卿(三条実美等七卿)を擁する尊王攘夷の旗頭たる長州藩の独走を危うんだ京都守護職・松平容保(会津藩)と薩摩藩士・西郷隆盛等(薩摩藩)が手を組み、長州藩の京都政局から追い落とした(八月十八日の政変)。
これに反発した長州藩とそのシンパである尊王攘夷派浪士が、失地回復を目論み、京都御所の禁門(通称蛤御門)に攻め寄せた政変。長州藩は惨敗、久坂玄瑞等多数の長州藩士が戦死。後の第一次征長戦争に発展した。
「変」にも共通点が存在する。
「乱」は支配者に対する被支配者による簒奪(さんだつ)目的の武力闘争であるのに対し、「変」は簒奪を目的にしながらも敵味方は支配者同士もしくは支配者側の内紛である。
一番ややこしいのが「役」である。この「役」と称される戦いには、民族的な問題を内包している。よって、運用には注意を要する。
「役」は使役、役務の「役」、つまり、最初は命令、徴用、さらには服従、その延長上に武力による征服戦(敵方は多分に異民族)。日本人対異民族との戦争を特別に「役」と呼称する。
そこには、優秀な日本民族が劣等なる異民族を征服、慰撫、教導するという傲慢さが見え隠れする。
明治以後の政府と軍部の大陸進出の根底に、この「役」思想があったと筆者は考える。
(平安時代、永承六年 1051年〜康平五年 1062年) 陸奥国奥六郡(岩手県北上川流域)の有力豪族 安倍頼時、貞任父子等蝦夷(?)一族の朝廷からの独立蜂起。鎮圧目的の派遣軍・源頼義、頼家父子が、出羽国(山形県、秋田県)の蝦夷の豪族 清原武則の助力により鎮圧。
平安時代、(永保三年 1083年〜寛治元年 1087年)
出羽地方(山形県、秋田県)で起こった清原家の内紛に源頼家が介入した事変。
清原真衡、清原家衡、そして、清原清衡(後の藤原清衡・奥州藤原氏初代)等が相討ち、清衡が最終勝利者となった。陸奥俘囚(ふしゅう・一般的には捕虜を指す。この場合は、蝦夷で大和朝廷に服属した一族)であった安倍氏同様、出羽清原氏も出羽俘囚であった。
文永・弘安の役(元寇)
鎌倉時代(文永十一年 1274年、弘安四年 1281年)
ユーラシアを席巻したモンゴル帝国内の中国王朝・元、その三代皇帝フビライ・ハンが日本征服を企図。対馬、壱岐を蹂躙し、北九州沿岸に来襲した。
鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の号令の下に馳せ参じたのは各地の御家人達であった。彼等は元軍を押し返したが対外戦のため、御家人には恩賞として一片の土地も与えられなかった。
元寇は、日本が初めて体験した異民族の大規模な来襲であった。ただ、元軍の編成でモンゴル人が占める割合は寡少で、そのほとんどが彼らに征服され徴用された高麗人(朝鮮民族)と南宋人(漢民族)であった。
日本でも元でも、この「役」によって内包された不平不満が、後醍醐天皇の建武新政、漢民族による明王朝の成立、李成桂による李氏朝鮮の建国に繋がった。
文禄の役(天正二十年 1592年〜文禄二年 1593年)豊臣秀吉が明王朝征服の足掛かりにするため、明の冊封国である李氏朝鮮に攻め入った。日本軍は漢城(ソウル)を占拠したが、戦線は明軍の参戦により膠着し一時休戦した。
慶長の役は、(慶長二年 一五九七年)の李氏朝鮮との講和交渉決裂によって再開されて(慶長三年 一五九八年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した。
韓国は、今だに秀吉の朝鮮出兵を壬辰倭乱(じんしんわらん・文禄の役)、丁酉倭乱(ていゆうわらん・慶長の役)と呼称し倭乱(倭=野蛮族の兵乱)として蔑んでいる。
元(モンゴル)に強制された高麗が来攻した元寇は特例として、朝鮮民族が自主的に日本に攻め寄せた事績はない。
明治政府による日韓併合
反して、我が国は上記四度わたりかの地を蹂躙した。そのうち二回は首都京城(ソウル)まで陥落させた。
筆者は、あたら彼の国に阿(おもね)る反日家ではない。ただ、もし同じ民族によって過去二千年間で四度も国土を蹂躙され、二度に亘って首都を武力占拠されたなら、その民族を信じるにはどれ程の時が必要だろうかと考えてしまう。
それでも、筆者は敢えて云いたい。私たち日韓両国のマジョリティは、困難を克服し、互いの信頼関係を構築し、手に手を取って未来へ進んでいけると。