名乗りの成り立ち
繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。
繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。
春王少年が元服し、諱(いみな)の名乗りを念願した強い想いは現代人には分かりにくいかも知れません。
元服を果たし、名乗りを幼名から諱に変えるのは一人前の武士としての誕生を意味します。 特に上級武士階級にとって内外に自らの存在を示す一大事でした。元服し名乗りをしないのは生きた証が無いのと同じです。春王は自分の未来を予測し元服と名乗りを急いだのかも知れません。
今日において姓名(戸籍名)は、婚姻や縁組、または特別の事情が無い限り変更できません。なお芸名やハンドルネームは自称であって法的効力はありません。
しかし、古来、武士は勢力の伸長や主君、朝廷への貢献に拠って次々と姓名は変わっていきます。
姓名の変遷を誰もが知ってる徳川家康を例にして説明します。
徳川家康(天文十一年1543〜元和二年1616 享年七十三)の幼名は松平竹千代といいます。
天文二十四年(1555)、元服後は、松平次郎三郎元信(じろうさぶろうもとのぶ)と名乗ります。次郎三郎が通称、諱が元信です。家康の烏帽子親は、今川義元なので元の一字を与えられたのです(偏諱)。
その後、領国三河の英雄であった祖父・松平清康に肖(あやか)り、松平元康とします。
永禄三年(1560)に突発した今川義元の敗死、世にいう桶狭間の戦いにより三河国(愛知県東部)にて独立した元康は今川氏の軛(くびき)から解放されます。次いで、桶狭間の勝利者・織田信長と清洲同盟を取り交わします。
永禄六年(1563)、名を松平元康から松平家康に改名します。名実ともに今川氏との決別です。
三河の戦国大名に成長した家康は、朝廷に対して「三河守」叙任を願い出ます。しかし、正親町(おおぎまち)天皇は叙任しません。
紆余曲折の挙げ句、関白・近衛前久(このえさきひさ)等の公家の入れ知恵により「従五位下(じゅごいのげ)三河守徳川家康」が誕生しました。早い話、家系図の捏造です。この時代の人は、結構みんなやってます。
家康の家系図は、新田義重(新田氏始祖)四男に得川義季(とくがわよしすえ、実在の人、領地が上野国得川郷)がいます。義季の次男・世良田頼氏(せらたよりうじ、実在の人、領地が上野国世良田郷)の子孫が三河国に移住し松平親氏(領地が三河国松平郷・現愛知県豊田市)を名乗ります。このあたりから怪しくなります。親氏は、武士ではなく徳阿弥という流れ坊主だったともいわれます。
ともあれ、以上のように徳川家康の本姓は源氏を称していました。ただ、その素性を朝廷に不審がられ三河守叙任を拒否されます。とどのつまり、松平氏の本来の姓は源氏であったが、三河守叙任のため前久と同じ藤原氏を名乗ります。
また、名字も松平から得川、さらに吉字の「徳」を当てた「徳川」と変遷します。
こうして「徳川家康」の完成です。
但し、無から有を生んだわけですから諸説有りです。
慶長八年(1603)二月十二日に家康は、朝廷から「征夷大将軍」の宣下を受け、初代徳川将軍に就任、徳川幕府を開幕します。その日の家康の名乗りは、
となります。殆ど漢詩みたいな漢字の羅列です。送り仮名は個々に後述します。
意味と由来を一つひとつ説明します。つまらないかもしれませんが、これがわかれば日本史、特に歴史小説が楽しくなります。
まず、従一位(じゅいちい)、これは位階といい、朝廷(いわば日本)内の階級を表します。
最高位階は正一位で以下、従一位、正二位、従二位…正四位上、正四位下と四位以下は上と下に分かれ一位から八位、大初位の上と下、少初位上と最下位の少初位下まで全三十階級あります。
家康の従一位は、上から二番目になります。ただ、最高位の正一位は、大概死んだ後に御供養で下賜されます。これを追贈といいます。家康は、正一位 太政大臣(しょういちい だじょうだいじん)を追贈されました。
位階は現代にも存在します。今は多少整理されましたが、それでも十六階級です。お身内で政府(天皇陛下)から「位記」(賞状のような紙)を下賜された方がいれば見てみてください。書いてあるはずです。 ちなみに、安倍晋三元総理は従二位を追贈されました。徳川家康より2ランク下です。
次は、右大臣(うだいじん)、これは官職です。最高位は、太政大臣、以下、左大臣、右大臣、内大臣…と下がっていきます。ちなみに文武百官と云われ文官と武官併せて数百の階級役職に分かれます。
時代劇で「石田治部少輔(じぶしょうゆう)」とか「吉良上野介」と呼ばれていますが、官職は名字に続いて呼ばれます。田中課長とか佐藤部長と同じです。ちなみに、源実朝、織田信長、豊臣秀頼が右大臣の官職を最後に非業の死を遂げました。単なる偶然でしょうが。
つぎは源、これは姓(かばね、または本姓)といいます。共通の先祖から発したグループに属してますとの表明です。
有名なのは、源平藤橘(げんぺいとうきつ)です。
橘氏は、橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖とします。代表は、三筆の橘逸勢(はやなり)。
皇族が増え、国費で養えなくなると領地と本姓を与えて皇籍を離脱させ臣下にします。これを臣籍降下といいます。
上記四姓を時の天皇より姓を賜ったものとして賜姓貴族といいます。
他に自称の本姓として鴨(賀茂)氏、菅原氏、安倍氏など多数あります。
苗字または名字と混同し易いですが、明確な違いがあります。本姓と諱(いみな)の間に「の」が入ります。
たとえば、源頼朝の読みは「みなもとのよりとも」です。本姓が同じ源氏の足利尊氏ですが「あしかがのたかうじ」とは読みません。頼朝は源氏の嫡流なので本姓そのままです。尊氏は多数いる源氏の傍流の一つで下野国足利荘を領地としたので足利氏を称しました。
では、どんな時に本姓を使用するかといえば、朝廷への上奏文や天皇の御前に伺候した際です。公式の場では名字は使用出来ません。つまり、本姓を持たない者が朝廷に物申すなどおこがましいということです。もちろん、現代では有り得ません。
つぎは朝臣(あそん)、これも姓(かばね)です。正式には八色の姓(やくさのかばね)といいます。歴史は古く飛鳥時代に遡ります。壬申の乱(天武天皇元年672)に勝利した天武天皇は、新秩序建設と乱の論功行賞のため、従来の「臣(おみ)」や「連(むらじ)」の階級の上に新たな階級を上乗せしました。最上位に真人(まひと)二位に朝臣(あそん)。三位に宿禰(すくね)四位に忌寸(いみき)五位に道師(みちのし)六位に臣。七位に連。八位に稲置(いなぎ)の八階級です。
後世まで残ったのは、二位の朝臣のみですが、これは前述した「源平藤橘」の四氏が揃って朝臣を賜り、中でも源氏と藤原氏が隆盛したためと云われています。
次は源氏長者です。正確には「源の氏の長者(みなもとのうじのちょうじゃ)」といいます。本姓が源氏の中で最高権力者が氏長者に推戴されます。簡単に云えば並居る政敵を叩き潰した最終勝利者ですね。源頼朝然り、足利尊氏然り、そして、徳川家康です。同様に藤原氏には藤原氏の氏長者がいます。代表者は藤原道長です。
次は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。これは「征夷」、朝廷に服従しない異民族(夷・えびす)を征伐する現地軍司令官の称号です。ですので当初は必要時ごと朝廷から任命される世襲のない官職です。このような律令に無い官職を令外(りょうげ)の官と云います。
征夷大将軍が世襲され武家の棟梁として全国を統治するようになったのは、建久三年(1192)、源頼朝の任官以後です。本来は臨戦時のみの武家総司令官であったものが、武士階級の圧倒的勢力拡大により恒久的政権となりました。元々幕府とは派遣された戦場で配下の武将と軍議を行う陣幕を張った空間を指しました。
征夷大将軍と同じ令外の官に「関白(かんぱく)」があります。朝廷において天皇の代わりに政務を執行する最高位の官職です。由来は、中国の前漢時代に遡ります。
百官の上奏を関(あずか)り、皇に意見を白(もう)す
朝廷に上がって来るあらゆる情報を自らのみが意見を添えて天皇に奏上できる官職です。その功罪は明らかです。
さて、征夷大将軍を称せるのは源氏長者のみ、関白は藤原氏長者のみが慣例となっています。
家康は、三河守就任のため源氏から藤原氏に改姓していましたが、征夷大将軍就任のため源氏に復姓しています。
天下平定がなった時、当初、羽柴秀吉は武家の棟梁たる征夷大将軍を目指しました。ただ、不文律により征夷大将軍は源氏でなければなれません。そこで備中国鞆の浦(広島県福山市)にいた室町幕府最後の将軍足利義昭に養子にしてくれと頼みます。しかし、落ちぶれたとはいえ元足利将軍、どこの馬の骨かわからない秀吉に源氏は名乗らせるのは拒否します。
次に秀吉が狙ったのは関白です。関白も藤原氏以外は就任出来ません。
それこそどこの馬の骨かわからない身分から一代で天下人に成り上がった秀吉、一筋縄ではいかない人たらしの策士です。関白の家柄である五摂家(藤原氏嫡流の五家・近衛家、鷹司家、一条家、二条家、九条家)の権力闘争につけ込み、近衛前久の猶子(相続権の無い一代限りの養子)になり緊急避難的に関白に就任します。
つぎに、当代の後陽成天皇を富と権力でズブズブにして、なんと、千年振りに姓を下賜され豊臣姓を創姓します。これで関白職を豊臣家で世襲できます。ちなみに豊臣は本姓なので正式には「豊臣の秀吉」です。
最後は、徳川家康の由来です。徳川はいうまでもなく苗字(または名字とも書きます)です。家康は諱(いみな)といいます。徳川家康の名前の変遷は前に書きましたので割愛します。
ここで書きたいのは諱とは何かです。
信長、秀吉、光秀等の諱は、当人が生存中は、家族やごく親しい人間しか口にしないのが鉄則です。
本能寺の変で、信長が
「おのれ光秀、よくも裏切ったな」とのセリフがよくありますが、それはウソです。もし云ったとしたら次のようにいったはずです。
「おのれ明智日向守、よくも云々」
もしくは、
「おのれ明智十兵衛、よくも云々」
が正解です。
日向守は光秀の官職に由来します。十兵衛は光秀の通称です。
そうです、人を呼称する時は官職か通称で呼ぶのが当時の常識です。
では、なぜなのか?
諱は別の表記で「忌み名」とも書きます。諱は死後に尊称として使用する名前だからです。生きている間には使わないのがマナーでした。また、中国文化圏では、実名敬避の習俗が顕著です。
現在でも田中一郎さんを「一郎」と呼ぶのはよほどの仲ではないと呼ばないですよね。
その代表例が天皇の諡号です。今生存中の上皇陛下や天皇陛下を平成上皇とか令和天皇と呼ぶのは大変な不敬となります。
戦前(旧憲法下)、公然の場で云えば不敬罪で逮捕された程です。
当代の天皇を呼ぶ場合は、天皇陛下か今上(きんじょう)陛下と呼ぶのが妥当です。
以上長々と名乗りの成り立ちについて書きましたが、おつきあいありがとうございました。
次回は、本編結城合戦の続きを物語ります。
是非また読んでくださいませ。