氏朝殿、持朝殿…いや、父上、兄上、流浪の身と云えど春王は武士の子、戦場にて足利の旗を掲げ名乗りとうございます。何卒、元服の儀お願い致します。
前節からの続き
永亨十二年(1440)四月 結城城 仮初(かりそめ)の元服
櫓(やぐら)から見下ろす視界を埋め尽くすは関東管領(幕軍)方の軍勢であった。
幕軍の陣容は、総大将・前関東管領(ぜんかんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)、副将・現関東管領上杉兵庫守(ひょうごのかみ)清方(きよかた)。憲実は隠居し、弟清方に関東管領職を譲っていたが、将軍足利義教の厳命により引っ張り出されてしまった。
他に、義教より幕軍の証である旌旗(せいき)を下賜(かし)された上杉持房(もちふさ)が尾張美濃(愛知県岐阜県)の兵を率いており、奥羽鎮守に派遣されていた上杉教朝(のりとも)が奥羽兵三万をひきつれて合流した。守護大名としては、信濃守護・小笠原政康、甲斐守護・武田信重、越前守護・朝倉教景、駿河守護・今川範忠、相模守護・上杉修理太夫(しゅりだゆう)持朝(本稿では結城持朝との混同を避けるため、上杉修理と表記する)、その他国人領主を含めて約十二万の大軍であった。
対する城方は、主将結城氏朝、嗣子持朝、氏朝の舎弟八郎久朝、同じく舎弟山内氏義、氏朝の生家である下野小山家当主小山広朝とその一門衆。水谷時氏、黒田将監(しょうげん)、山川式部(しきぶ)、梁田修理等の重臣。その兵力約一万である。
数の上では、幕軍の十分の一に過ぎないが、本城結城以外に、西方三里(約9キロ)に小山城(栃木県小山市)、南方五里(約20キロ)に古河城(栃木県古河市)、南方七里(約30キロ)の関宿城(千葉県野田市関宿町)。これら三城を連携し、広範囲な防衛線を形成している。
「壮観だな…天下の兵を足下に集め戦を始める。武士(もののふ)冥利に尽きるというものよ。そうは思わぬか、持朝」
父氏朝の心底嬉しげな眼差しを見返した。〈誠に嬉しそうな顔をなさいますな…父上。結城がこれにて滅びるかもしれぬのに…〉歴戦の武将とはかくも剽悍(ひょうかん)な気性になるものかと持朝は半ば処置無しと呆れた。
氏朝の傍らに立つ久朝叔父が、
「武者は生甲斐よりも死甲斐だ。これだけの大戦さ、後世までの語り草になろうよ」
「ましてや勝ったとなれば、兄者の武名は尊氏公にも匹敵いたしますな」
氏義叔父が軽口を入れる。謹厳な父に比して、この叔父はいかさま軽薄であった。
「ところで御曹司に伺いたい此度の戦で最も心がけるべき要諦(ようてい)なんとおもわれるか」
櫓の上の鎧武者に交じっての水干では目立ちすぎる。敵方との距離は十分あるが万が一を危ぶみ、体より大振りな持朝の甲冑を附けた春王に氏朝が問いかける。
「すべての戦いに勝ち続ける」
少年らしい熱を放つ口調で春王が答える。
「まちがいではないが、少し違う」
「……」
「今一度お考え下さい」
「……… やはり勝たねばならんと」
「武将は別段勝たなくとも良いのです。勝ち続けるなどは神仏の所業。唯一無二の肝は負けぬこと」
小山本家の広朝が、
「氏朝殿、御曹司にはまだ…」
「では、言い様を変えよう。この戦に勝つ方策は、長期戦に持ち込むこと。彼等は皆、領地を離れてしかも手弁当で包囲しておる。いかに幕命とは云え本気で戦いを望む輩なぞ一人もいない。つまり、撤兵の…」
「そうですね。わかりました。長期戦に持ち込んで、彼等自身に撤兵の大義名分を見つけさせればいい」
春王の明敏さに満足したように氏朝は頷いた。
「それでこそ未来の我等が御大将。感服いたしました」
「父上、軍議の刻限となります。陣屋へお願いいたします」
「相分かった。諸将の方々は各々割当の巡視後、陣屋に参集頂こう。小一郎はおるか、おまえは寄せ手の陣立てを書き写しすぐさま陣屋にもってくるのだ」
小一郎とは、霞ヶ浦の湖岸の集落、阿見で氏朝が見出した猟師の子供で元の名を小市といった。利発気な双眸(そうぼう)と俊敏な身のこなしを気に入り侍者として召し出した。名は阿見の出身であるから「阿見小一郎」と名乗らせ武士として養育してきた。
「承知いたしました。絵図面はすぐさま陣屋へお届けいたします」
小一郎はひざまずづき、半紙と筆を受け取った。
櫓に固定された梯子段を降り陣屋になっている東の館に氏朝父子が向かう。
東の館は、表は結城の政庁であり、奥は氏朝夫妻の居所である。西の館は持朝夫妻の居所だが、今は春王達一行の居所にしており、持朝夫妻は東の館で父母と同居している。
「父上は小一郎に格別目をおかけですが、私にはただの若者にしか見えませぬ。あいつの何をそれ程までに買っておられるのですか」
「あいつがまだ十になるかならないかだったな。あいつの父の茂市は、それは大した猟師でな。儂も狩猟が好きであったから、領主と領民の枠を超えて猟師として親しくしてもらいお互いの技を教え合う仲よ」
「猪肉や鹿肉、時には熊肉を喰らうた思い出がございます。あれは父上が射倒した獲物でしたか。それにしても旨かった」
「ここからが話のキモよ。猟とは戦と同じ。狗(いぬ)が足軽、勢子が徒(かち)、射手が侍、大将たる猟師が彼等を自在に操り鹿や猪をこちらの思う壺の場所に導くのじゃ。戦と同じと思わぬか」
東の館の前庭に設われた陣幕と床几に腰を下ろし、氏朝が続ける。
「畜生とはいえ獲物も必死、思わぬ動きや時には反撃にも遭う。猟の成功率は五分五分であろうか… ところが、十かそこらの小一郎に手配りさせると十中八九狙った場所に獲物はおいこまれてくるのだ。父親の見様見真似とは云え、あやつには戦を組み立てる才あると儂は確信している」
時折、敵方の威しの喚声が上がるのを父子は聴くとは無し聴いていた。単なる威しなのは、敵方から立ち昇る炊煙で知れた。
城内の各割当の巡視を終えた諸将が陣幕をくぐり己の床几に着した。
立ち戻った小一郎が氏朝の面前に跪き半紙を差し上げた。
「お待たせいたしました。当城を包囲する軍勢でございます。旗指し物から凡そ判別いたしました。総勢ざっと十万と思慮いたします」
氏朝が目を通す。書かれている内容は、
大手口(おおてぐち) 坤(ひつじさる・西南)の方面
現関東管領・上杉清方軍 北関東勢
搦手口(からめてぐち)乾(いぬい・西北)の方面
艮(うしとら・東北)の方面
大将上杉教朝 奥州勢
巽(たつみ・東南)の方面
大将上杉持房 東海信越勢
大手口軍の後方に前関東管領、総大将上杉憲実の陣
書付を回覧し、氏朝や持朝、諸将間で質疑応答がかわされた。
「大山相模介殿の旗印は見えたか」
持朝が小一郎に問う。
「相模介様の旗印はございませんでした」
「そうか、つけ入る隙もまだあるな… 父上、言上したき事がございます」
「わかっておる。なかなか良い目の付け所じゃ 持朝。そちに任せるゆえ。やってみよ」
「承知いたしました」
全員が口を閉じたのを見計らって氏朝が立ち上がった。
「ご参集の諸将の方々に申し上げる。近日には軍使が参られ御曹司の引き渡し要請があろう。もちろん峻拒いたす。さすれば本格的な戦に突入する。各々抜かり無く持場を固めてくだされい。訊きたき儀がなければ解散といたす」
結城城 東の館 氏朝の居室
北常陸、北下総、東下野の絵図面を広げ、駒を並べては元に戻す。考え込んではまた氏朝は駒を並べる。それをなにも言わず持朝が見ている。
「大山には誰を遣わすのだ」
相模国の絵図面を広げ、大山阿夫利神社に駒を置きながら氏朝が尋ねた。
「小一郎をまず行かせようと考えます。その手応えによって私が行ってもよいかと」
「小一郎に任せれば良い。あやつなら十分役目を果たす。そのように鍛えてきた」
次の間から侍臣の声があり、春王の来意を告げた。
「このような夜半に何であろうか…わかるか七郎…」
「いやわかりませね。はてさて何でしょうね」
襖がゆっくり開き、敷居の向こうで叩頭した春王が座っていた。
「こんな夜分にご来処とは…御用ならば、この氏朝か七郎をお呼びくださいませ」
「とんでもございません。公子だ御曹司だの呼ばれても、我らは謀反人の子、結城殿の助力がなければ明日をも知れぬ身の上、心得ております」
「御曹司は、将来、我等が主君たる御身分、軽々しく家臣にへりくだるものではありません。ササッ、こちらへ」
氏朝は春王に上座を譲り、持朝が父の背後に坐した。
「さて、どのような用向きで参られたのかな。承りましょう」
板間の木目を指でなぞり、云うか云うまいかを春王は未だ逡巡している。しばし沈黙が流れる。氏朝は苛立つでも無く鷹揚に春王を待った。
待たれていると察した春王の
頬色が紅く上気する。
「厄介者の分際でこのような願いを口にするもおこがましいのですが、氏朝殿を烏帽子親として元服いたしたく存じまする」
思いもよらね願いを耳にした持朝は言葉を失った。目前に雲霞の如き敵軍が迫ったこの時に元服とは…まして足利嫡流の御曹司が…
「御曹司、それはあまりにも常軌を逸した…」
「云うな、七郎」
持朝の言をピシャリと遮り、氏朝は春王の目の深淵をのぞき込むような眼差しを春王に向けた。
「戦の渦中のこの時に元服をし、足利の旗を挙げるが意味する処をご存じか」
「わかっております」
「いや、わかっておられぬ。万が一この戦に破れた場合、もちろん負けぬ算段はしている。だが戦に絶対などないでな。負けた場合、元服前の稚児ならどこぞの寺に預けられ罪一等減ぜられる可能性もある。だが、元服を済ませ名乗りを定め、足利の二つ引両(ひきりょう)を旗印を掲げるは、京の将軍家への明白な反逆、地の果てまでも討滅の軍が来ますぞえ」
「もとより覚悟の上での申し出でございます」
持朝に踵を返した春王が、
「先般、持朝殿は、生まれ育ちは違えども死する時は同じとおっしゃいました。頼るべきも信じるべきもない春王、我ら兄弟にとってあのお言葉、どんなにか心強くうれしゅうございましたか。どうか持朝殿からも氏朝殿にお願いしてくだされ」
「五郎、そこに控えておろう」
背後の襖に向かって持朝が云う。襖が音も無く開くと、湯浅五郎が平伏している。
「お前が手塩にかけ育て我が子同然の御子を戦に巻き込む次第となるぞ。それで良いのか」
湯浅五郎は、深く頭(こうべ)を垂れたまま、
「御曹司を御守りするためなら天涯(てんがい)の地までも参りましょう、もし、御曹司が戦うとあれば馬前で死するになんの悔いがありましょうや」
ここぞとばかりに春王は、
「氏朝殿、持朝殿…いや、父上、兄上、流浪の身と云えど私も武士の子、戦場にて足利の旗を掲げ名乗りとうございます。何卒、元服の儀お願い致します」
この翌々日、春王は、結城中務大輔(なかつかさだいゆう)氏朝を烏帽子親として元服した。
名乗りは氏朝から偏諱を受け、「第五代鎌倉公方・足利朝氏」と定めた。
「これより結城は、この御方を主君と仰ぎ粉骨砕身の働きを見せようぞ」
城内前庭に集合した結城一族を始めとする武者達を前に氏朝は高らかに宣言した。
階(きざはし)には、鎌倉公方家伝来の甲冑を身に着け、頬を朱く上気させた足利春王改、五代鎌倉公方・足利朝氏が屹立(きつりつ)している。
今回は、武家の元服について語ってみたい。(ただし、時代、土地によって見解や事象に差がでるので、何卒、ご了承くださいませ)
元服とは今日の成人式の事である。ただ、昨今の荒れた馬鹿騒ぎと違い謹厳な作法と伝統に培われた儀式である。
上は天皇から公家や武家、下は庶民に至るまでが、早くて十二、三歳から二十歳位までに迎える。
早い例で云えば、徳川七代将軍徳川家継が五歳、遅い例では、本稿の敵役の足利義教が三十六歳である。両名とも極めて政治色が濃厚な元服で一般的ではないが…。
元服前後で変化するのは、装束と名乗りである。
名乗り関して説明すると複雑で長くなるので今回は、装束に関してのみお話する。
「千と千尋の神隠し」をご覧になった方も多いと思うが、ヒロイン千尋を助ける「ハク」という白竜の化身の少年の姿を思い浮かべていただきたい。
あの姿が、元服前の男子の典型的な装束である。あの装束、は「水干」と呼ばれ、上着を頭から被り、短袴もしく袴を履く。
髪型は「禿(かむろ)」、今で云うオカッパで肩まで伸ばす。もしくは、稚児髷と呼ばれる前髪を残した髷を結う。
近世(戦国末期から江戸)以降は大人の装束とあまり変わりなくなる。ただし、髪型は前髪を残す稚児髷は同じである。
元服後は、礼式では直垂(ひたたれ)を着用する。直垂は、主に武家社会で着用された装束である。現代で直垂を着用した人間を見たいなら大相撲をご覧いただきたい。取組を仕切る行司が身につけた装束、あれが直垂である。
髪型は、少年期に肩まで伸ばしている髪を総髪(オールバック)にし後頭部で立ち上げ、一本にまとめた型がひとつ。
前頭部から頭頂部の髪を剃り、側頭部の髪を後頭部に集め一本にまとめて髷を作り、剃った頭頂部(月代〈さかやき〉と読む)に載せる型がまたひとつ。そして、頭上に烏帽子を載せる。
烏帽子には皇族や公家が被る円筒で高さがある立烏帽子など種類があるが、侍は侍烏帽子を被る。形は現代の相撲の行司が被っているのと同型である。
次回ヘ続く
※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。
読者諸兄には何卒ご了承くださいませ