叛乱 結城合戦 第3話

悪御所だと!万人恐怖だと!好きに呼ぶがいい!! 余は征夷大将軍足利義教である。余の道を阻む者が仏ならば仏を殺し、神ならば神をも殺す。


 前節からの続き

 本稿において、足利義教は悪役で登場している。これまでの足利義教歴史的評価は散々である。悪御所、万人恐怖と称され専制恐怖政治を布いた。彼の意向で誅殺された大名も少なくないとされる。当時の記録よれば、義教の逆鱗に触れ処罰された者は、公卿五九人、神官三人、僧侶十一人、女房七名、この数字には武士と庶民は含まれておらず、実数は更に増えるとされる。中には酒の酌が不調法として尼にさせられ侍女、説法した僧侶の舌を切るなどなど、もはややりたい放題である。

 誇張であると思うが、義教に召された武士は、出掛けに家族と水盃を交わし、直垂(ひたたれ)の下には経帷子(きょうかたびら)を着て御前に伺候したとの伝聞がある。

 足利義教は、室町幕府第三代将軍足利義満の子であるが、何番目の男子かは不明である。幼名は春寅と云い、出家得度後、義円と号した。天台座主(てんだいざす・比叡山延暦寺のトップ)にまでなっているので将軍後嗣にはなれなかったとしても、有能であったのはまちがいない。兄・四代将軍足利義持、甥・五代将軍足利義量の死去の跡を受け将軍に就任した。前記したように、残った義満の子達、四兄弟のクジ引きの結果の就任であった。依って、世に「籤引き将軍」と揶揄された。

 将軍就任の経緯は不本意であったかもしれないが、就任後は、俄然やる気を発揮した。義教の目指す政事は、父・三代将軍足利義満の治世の再現であったと思われる。

 父足利義満は、長く抗争に明け暮れた南朝を実質上、北朝への吸収の形での南北朝合一(明徳の和約・明徳三年 1392年)を成し遂げ、権力の二重構造を打倒した。また、山名氏、土岐氏等の有力守護大名を屈服させ、一時的にせよ将軍専制を実現させた。

 争乱が止む間が無かった室町時代で数少ない平穏な時代を創出させた。まさにパックス・アシカガーナである。

 対外的にも、義満は日本国王・源道義の名で明王朝・建文帝より冊封(さくふう)され勘合(かんごう)貿易を独占し莫大な利益を産んだ。

 偉大な父は、幼かった春寅の眼にも眩しかったであろう。

 前記を教導として義教は、室町将軍家の政治的経済的な中央集権統治の実現を目指した。

 比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長が有名だが、最初に比叡山延暦寺焼き討ちを決行したのは、足利義教である。

 宗教が権威だけでなく権力を保持しようとするのは、古今東西変わりない。中世期、延暦寺始め、興福寺南禅寺祇園社(八坂神社)、日枝神社、北野神社等の寺社仏閣は、現代のコングロマリットと変わりない。金融業、不動産業、流通業を支配していた。

 例えば、延暦寺日枝神社の貸出金利はなんと年利70%以上であり、返済不可能(なるに決まっている)になれば容赦無く土地を差押えた。差押えた土地を人に貸し地代を取る。また、寺社仏閣はそれぞれ独占専売品を持ち流通を牛耳った。酒は延暦寺、油は南禅寺、織物は祇園社(八坂神社)といった具合に暴利を貪り食う。その上に厄介なのが、各々が私兵(寺は僧兵、神社は神人)を養っており、利権の妨害には兵力以て対抗した。いわば、少し前に世界を震撼させたイスラム国の日本版である。宗教の全てが善良ではないのは歴史の真実である。

 少しは骨のある為政者が、これを黙って受け入れる理由がない。まして、足利幕府の復権、将軍家専制を目指している足利義教である。焼き討ちするのは避けては通れない。

 焼き討ちにより比叡山延暦寺を屈服させた義教の次なる標的は、権力の二重構造の根源、鎌倉府・鎌倉公方の存在である。折よく起こった鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の内紛を利用し、鎌倉公方家を滅亡に追い込んだ。と、ほくそ笑んだところに飛び込んできたのが、

持氏の遺児三人の鎌倉脱出と結城城入城だった。


永享十二年(1440)京 室町御所


「御所様の御成ーぃ」

 高らかな発声ともに襖が開いた。性急な歩揺で回廊を渡ってきた小男が着座する。脇息はあるにはあるが、形ばかりで凭れ掛かりはしない。

 一段高い厚畳の御高座が、室町幕府六代将軍足利義教の定位置である。

 三管領四職の幕閣が御前に居並ぶ。

 十四代管領細川右京太夫持之、細川讃岐守持常の細川京兆家、畠山左馬助持永等の三管領家の面々。

 赤松兵部少輔満祐、京極加賀守高数、山名左衛門佐持豊等の四職家の面々。

 そして、この場には場違いな男が次之間に控えていた。

「よくもおめおめと顔を出せたな、安房守」

 前関東管領の上杉安房守憲実である。この度の子細言上のため鎌倉から呼び寄せられた。本来ならば、実弟の現関東管領上杉清方が参上すべきところ、清方が結城討伐参戦のため、憲実が代参した。〈そっちが呼んどいておめおめとはふざけるな〉と憲実は腹蔵で毒づいた。

 老練不敵な憲実は、そんな腹の内をおくびにも出さない。地面に叩きつけられた蛙(カワズ)のように畳に這いつくばったままだった。相手はお手討ち上手の悪御所義教だ、下手に頭を上げれば文字通り首が跳んでも不思議ではない。

 細川持之が伺いをする。

元服も終わっておらぬワッパのこと、三人まとめて鎌倉五山にでも入れて出家させるというのいかがでございましょう?」

 義教は、眼に凄みを効かせて持之を睨むだけで済ませた。流石に現職の管領を頭ごなしに怒鳴りつけるには遠慮があったのか…

「左衛門佐、如何思うか。存念あれば申せ」

 義教は、お気に入りの謀臣、山名左衛門佐持豊に意中を質した。

「出家などとんでも無き事でございましょう。結城に入城する前なら隠密理に捕縛し、出家も看過できたかも知れませぬ。しかし、城に立て籠もり、公然と幕軍に反旗をあげた以上、遺児三人、結城一族とその一党は根絶やしにせねばなりませぬ。御所様の目指す新しい政事の実現に必須でありましょう」

 義教は満足気に目を細め、持豊の言葉に大きく首肯した。

「左衛門佐、見事じゃ。四職ではまだ年若だが、その見識、誠にあっぱれである」

 山名左衛門佐持豊(後の宗全)は、後には山陰山陽十カ国の太守と成り、応仁の乱・応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年)において西軍の総大将となるほどの権勢を持った。ちなみに東軍総大将は前出細川持之の嫡子細川勝元である。

〈若輩者のごますりが…しゃしゃり出おって〉と細川持之と畠山持永が露骨に舌打ちをした。

「して、いま結城への寄せ手はどんなじゃ」

 畳にへばりつく上杉憲実が顔だけ義教に向けて、

「城方は約一万、他に佐竹、小山、宇都宮の城外の合力がございます。が、積極的な戦意は無きに等しく、結城落城の報に接すれば速やかに開城するでありましょう。ただ、城方の戦意と防備は侮り難く存じまする」

「この愚か者がッ 城方などどうでもよいわ。余が知りたいのは、寄せ手は何日で結城を皆殺しできる?その一事だけじゃ」

 義教は怒号を発し、憲実の頭上に歩み寄り、手にした扇子で憲実の眉間を激しく打擲した。憲実の眉間は切れ、一筋の血が滴った。打ち振るわれたのが小刀ではなく扇子であったのは不幸中の幸いと一座の者たちは安堵した。

 それまで寡黙であった一座の年長である赤松兵部少輔満祐が口を開いた。

「御所様に申し上げます。去る永享七年、比叡山延暦寺を焼き討ちなさいました。同じ元号内のこの度、同じ足利の御名を戴く一族、しかも年端も行かぬ子供を討ち滅ぼすのは仏罰神罰が怖ろしいかと思慮いたします」

 一瞬皆に背を向けた義教は、刀架から大刀を手にし抜き放った。皆が蜘蛛の子を散らすように逃げた。

「兵部、その物言い、良い度胸だ。素っ首刎ねてやる。そこになおれ」

 義教の激高に臆する素振りを微塵も見せず、老臣満祐は静かに云った。

「この白髪首など今更惜しむ歳ではないが、儂のように命懸けで諫言する爺ぃを切り捨てるようであれば、世も末である」

 満祐の言葉を聞くか聞かずの間に義教の太刀が一閃し、満祐の髻が宙に飛んだ。

 それでも義教を睨み上げるザンバラ髪の満祐が御所勤仕の輩に脇を抱えられ、その場から連れ去られた。

「悪御所だと!万人恐怖だと!好きに呼ぶがいい!! 余は征夷大将軍足利義教である。余の道を阻む者が仏ならば仏を殺し、神ならば神をも殺す」

 室町御所中に鳴り響かせるように足利義教は絶叫した。


 赤松兵部少輔満祐の隠居、播磨(兵庫県西南部)の所領が没収されるとの風聞がまことしやかに京の都に流れるようになった。


次回ヘ続く


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。

 読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 もし良かったら次回もお読み下されば嬉しく思います。