叛乱 結城合戦 第8話

 名乗りの成り立ち

 繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。

 繰り返しになりますが、足利朝氏は、筆者が創り出した架空の武将です。ただ、幼名足利春王は実在の少年です。

 春王少年が元服し、諱(いみな)の名乗りを念願した強い想いは現代人には分かりにくいかも知れません。

 元服を果たし、名乗りを幼名から諱に変えるのは一人前の武士としての誕生を意味します。 特に上級武士階級にとって内外に自らの存在を示す一大事でした。元服し名乗りをしないのは生きた証が無いのと同じです。春王は自分の未来を予測し元服と名乗りを急いだのかも知れません。

 

 今日において姓名(戸籍名)は、婚姻や縁組、または特別の事情が無い限り変更できません。なお芸名やハンドルネームは自称であって法的効力はありません。

 しかし、古来、武士は勢力の伸長や主君、朝廷への貢献に拠って次々と姓名は変わっていきます。

 姓名の変遷を誰もが知ってる徳川家康を例にして説明します。

 

 徳川家康(天文十一年1543〜元和二年1616 享年七十三)の幼名は松平竹千代といいます。

 天文二十四年(1555)、元服後は、松平次郎三郎元信(じろうさぶろうもとのぶ)と名乗ります。次郎三郎が通称、諱が元信です。家康の烏帽子親は、今川義元なので元の一字を与えられたのです(偏諱)。

 その後、領国三河の英雄であった祖父・松平清康に肖(あやか)り、松平元康とします。

 永禄三年(1560)に突発した今川義元の敗死、世にいう桶狭間の戦いにより三河国(愛知県東部)にて独立した元康は今川氏の軛(くびき)から解放されます。次いで、桶狭間勝利者織田信長清洲同盟を取り交わします。

 永禄六年(1563)、名を松平元康から松平家康に改名します。名実ともに今川氏との決別です。

 三河戦国大名に成長した家康は、朝廷に対して「三河守」叙任を願い出ます。しかし、正親町(おおぎまち)天皇は叙任しません。

 紆余曲折の挙げ句、関白・近衛前久(このえさきひさ)等の公家の入れ知恵により「従五位下(じゅごいのげ)三河徳川家康」が誕生しました。早い話、家系図の捏造です。この時代の人は、結構みんなやってます。

 家康の家系図は、新田義重(新田氏始祖)四男に得川義季(とくがわよしすえ、実在の人、領地が上野国得川郷)がいます。義季の次男・世良田頼氏(せらたよりうじ、実在の人、領地が上野国世良田郷)の子孫が三河国に移住し松平親氏(領地が三河国松平郷・現愛知県豊田市)を名乗ります。このあたりから怪しくなります。親氏は、武士ではなく徳阿弥という流れ坊主だったともいわれます。

 ともあれ、以上のように徳川家康の本姓は源氏を称していました。ただ、その素性を朝廷に不審がられ三河守叙任を拒否されます。とどのつまり、松平氏の本来の姓は源氏であったが、三河守叙任のため前久と同じ藤原氏を名乗ります。

 また、名字も松平から得川、さらに吉字の「徳」を当てた「徳川」と変遷します。

こうして「徳川家康」の完成です。

 但し、無から有を生んだわけですから諸説有りです。


 慶長八年(1603)二月十二日に家康は、朝廷から「征夷大将軍」の宣下を受け、初代徳川将軍に就任、徳川幕府を開幕します。その日の家康の名乗りは、


従一位右大臣源朝臣氏長者征夷大将軍徳川家康


となります。殆ど漢詩みたいな漢字の羅列です。送り仮名は個々に後述します。


 意味と由来を一つひとつ説明します。つまらないかもしれませんが、これがわかれば日本史、特に歴史小説が楽しくなります。


 まず、従一位(じゅいちい)、これは位階といい、朝廷(いわば日本)内の階級を表します。

 最高位階は正一位で以下、従一位、正二位、従二位…正四位上正四位下と四位以下は上と下に分かれ一位から八位、大初位の上と下、少初位上と最下位の少初位下まで全三十階級あります。

 家康の従一位は、上から二番目になります。ただ、最高位の正一位は、大概死んだ後に御供養で下賜されます。これを追贈といいます。家康は、正一位 太政大臣(しょういちい だじょうだいじん)を追贈されました。

 位階は現代にも存在します。今は多少整理されましたが、それでも十六階級です。お身内で政府(天皇陛下)から「位記」(賞状のような紙)を下賜された方がいれば見てみてください。書いてあるはずです。 ちなみに、安倍晋三元総理は従二位を追贈されました。徳川家康より2ランク下です。

 

 

 次は、右大臣(うだいじん)、これは官職です。最高位は、太政大臣、以下、左大臣、右大臣、内大臣…と下がっていきます。ちなみに文武百官と云われ文官と武官併せて数百の階級役職に分かれます。

 時代劇で「石田治部少輔(じぶしょうゆう)」とか「吉良上野介」と呼ばれていますが、官職は名字に続いて呼ばれます。田中課長とか佐藤部長と同じです。ちなみに、源実朝織田信長豊臣秀頼が右大臣の官職を最後に非業の死を遂げました。単なる偶然でしょうが。


 つぎは源、これは姓(かばね、または本姓)といいます。共通の先祖から発したグループに属してますとの表明です。

 有名なのは、源平藤橘(げんぺいとうきつ)です。

 源氏は、清和天皇宇多天皇等を先祖とします。代表は源頼朝

 平氏は、桓武天皇仁明天皇等を先祖とします。代表は平清盛

 藤原氏は、藤原鎌足を先祖とします。代表は藤原道長

 橘氏は、橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖とします。代表は、三筆の橘逸勢(はやなり)。

 皇族が増え、国費で養えなくなると領地と本姓を与えて皇籍を離脱させ臣下にします。これを臣籍降下といいます。

 上記四姓を時の天皇より姓を賜ったものとして賜姓貴族といいます。

 他に自称の本姓として鴨(賀茂)氏、菅原氏、安倍氏など多数あります。

 苗字または名字と混同し易いですが、明確な違いがあります。本姓と諱(いみな)の間に「の」が入ります。

 たとえば、源頼朝の読みは「みなもとのよりとも」です。本姓が同じ源氏の足利尊氏ですが「あしかがのたかうじ」とは読みません。頼朝は源氏の嫡流なので本姓そのままです。尊氏は多数いる源氏の傍流の一つで下野国足利荘を領地としたので足利氏を称しました。

 では、どんな時に本姓を使用するかといえば、朝廷への上奏文や天皇の御前に伺候した際です。公式の場では名字は使用出来ません。つまり、本姓を持たない者が朝廷に物申すなどおこがましいということです。もちろん、現代では有り得ません。


 つぎは朝臣(あそん)、これも姓(かばね)です。正式には八色の姓(やくさのかばね)といいます。歴史は古く飛鳥時代に遡ります。壬申の乱天武天皇元年672)に勝利した天武天皇は、新秩序建設と乱の論功行賞のため、従来の「臣(おみ)」や「連(むらじ)」の階級の上に新たな階級を上乗せしました。最上位に真人(まひと)二位に朝臣(あそん)。三位に宿禰(すくね)四位に忌寸(いみき)五位に道師(みちのし)六位に臣。七位に連。八位に稲置(いなぎ)の八階級です。

 後世まで残ったのは、二位の朝臣のみですが、これは前述した「源平藤橘」の四氏が揃って朝臣を賜り、中でも源氏と藤原氏が隆盛したためと云われています。


 次は源氏長者です。正確には「源の氏の長者(みなもとのうじのちょうじゃ)」といいます。本姓が源氏の中で最高権力者が氏長者に推戴されます。簡単に云えば並居る政敵を叩き潰した最終勝利者ですね。源頼朝然り、足利尊氏然り、そして、徳川家康です。同様に藤原氏には藤原氏氏長者がいます。代表者は藤原道長です。


 次は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。これは「征夷」、朝廷に服従しない異民族(夷・えびす)を征伐する現地軍司令官の称号です。ですので当初は必要時ごと朝廷から任命される世襲のない官職です。このような律令に無い官職を令外(りょうげ)の官と云います。

 征夷大将軍世襲され武家の棟梁として全国を統治するようになったのは、建久三年(1192)、源頼朝の任官以後です。本来は臨戦時のみの武家総司令官であったものが、武士階級の圧倒的勢力拡大により恒久的政権となりました。元々幕府とは派遣された戦場で配下の武将と軍議を行う陣幕を張った空間を指しました。

 征夷大将軍と同じ令外の官に「関白(かんぱく)」があります。朝廷において天皇の代わりに政務を執行する最高位の官職です。由来は、中国の前漢時代に遡ります。

 

 百官の上奏を関(あずか)り、皇に意見を白(もう)す


 朝廷に上がって来るあらゆる情報を自らのみが意見を添えて天皇に奏上できる官職です。その功罪は明らかです。

 さて、征夷大将軍を称せるのは源氏長者のみ、関白は藤原氏長者のみが慣例となっています。

 家康は、三河守就任のため源氏から藤原氏に改姓していましたが、征夷大将軍就任のため源氏に復姓しています。

 

 話が少し逸れますが、豊臣秀吉はなぜ豊臣秀吉なのでしょうか?

 

 天下平定がなった時、当初、羽柴秀吉武家の棟梁たる征夷大将軍を目指しました。ただ、不文律により征夷大将軍は源氏でなければなれません。そこで備中国鞆の浦広島県福山市)にいた室町幕府最後の将軍足利義昭に養子にしてくれと頼みます。しかし、落ちぶれたとはいえ元足利将軍、どこの馬の骨かわからない秀吉に源氏は名乗らせるのは拒否します。

 次に秀吉が狙ったのは関白です。関白も藤原氏以外は就任出来ません。

 それこそどこの馬の骨かわからない身分から一代で天下人に成り上がった秀吉、一筋縄ではいかない人たらしの策士です。関白の家柄である五摂家藤原氏嫡流の五家・近衛家鷹司家一条家二条家九条家)の権力闘争につけ込み、近衛前久の猶子(相続権の無い一代限りの養子)になり緊急避難的に関白に就任します。

 つぎに、当代の後陽成天皇を富と権力でズブズブにして、なんと、千年振りに姓を下賜され豊臣姓を創姓します。これで関白職を豊臣家で世襲できます。ちなみに豊臣は本姓なので正式には「豊臣の秀吉」です。


 最後は、徳川家康の由来です。徳川はいうまでもなく苗字(または名字とも書きます)です。家康は諱(いみな)といいます。徳川家康の名前の変遷は前に書きましたので割愛します。

 ここで書きたいのは諱とは何かです。

 信長、秀吉、光秀等の諱は、当人が生存中は、家族やごく親しい人間しか口にしないのが鉄則です。

 本能寺の変で、信長が

「おのれ光秀、よくも裏切ったな」とのセリフがよくありますが、それはウソです。もし云ったとしたら次のようにいったはずです。

「おのれ明智日向守、よくも云々」

もしくは、

「おのれ明智十兵衛、よくも云々」

が正解です。

日向守は光秀の官職に由来します。十兵衛は光秀の通称です。

 そうです、人を呼称する時は官職か通称で呼ぶのが当時の常識です。

 では、なぜなのか?

 諱は別の表記で「忌み名」とも書きます。諱は死後に尊称として使用する名前だからです。生きている間には使わないのがマナーでした。また、中国文化圏では、実名敬避の習俗が顕著です。

 現在でも田中一郎さんを「一郎」と呼ぶのはよほどの仲ではないと呼ばないですよね。

 その代表例が天皇諡号です。今生存中の上皇陛下や天皇陛下を平成上皇とか令和天皇と呼ぶのは大変な不敬となります。

 戦前(旧憲法下)、公然の場で云えば不敬罪で逮捕された程です。

 当代の天皇を呼ぶ場合は、天皇陛下か今上(きんじょう)陛下と呼ぶのが妥当です。


 以上長々と名乗りの成り立ちについて書きましたが、おつきあいありがとうございました。

 次回は、本編結城合戦の続きを物語ります。

 是非また読んでくださいませ。

 


 

叛乱 結城合戦 第7話

我等がこの関東に望むは、動乱ではない。秩序と安寧だ。そうであろう!各々方 私が起つは、我が一族のみの安寧ではない。関東に住まう全ての民草の安寧である。

承前

永亨十二年(1440)七月 鬼怒川河畔 初陣

 

 白糸褄取威大鎧(しらいとつまどりおどしおおよろい)と黒韋腰白威筋兜(くろかわこしじろおどしすじかぶと)に身を包み、牛目貫(うしめぬき)を脇に差し、右手に大喰(おおはみ)を突き上げた第五代鎌倉公方・足利朝氏の初陣、初名乗であった。

 

「皆の者!我に続けー」

 朝氏は駆ける。

 味方の鞭声も敵の叫喚も最早何も聴こえない。河岸から凡そ一町(約100m)を天馬を御する如くに。

 些(いささ)かの躊躇(ちゅうちょ)も無く敵陣に躍り込む。ただ、湯浅五郎が傍らにいるのを感じながら。

 雑兵が下から槍を突き上げてくる。朝氏は馬上にて雑兵の肩口から胸元に刀を突き通す。微かな抵抗をも感じさせず貫けた。いかさま大喰は誠に名刀であった。

 罪人の死体や獣で試し斬りをした経験がある朝氏であったが、生身の人間を斬るのは初めてだ。

「御所様、臆したり迷ってはなりませぬ。戦場では命取りとなります。血に狂いなされ」

 朝氏の太刀筋に生人を斬る惧(おそ)れを観て取った五郎が叱咤する。

 恥じた朝氏は大喰の柄をしかと握り直す。

 朝氏に大身の武者が馬を寄せる。

鎌倉公方だと、ワッパ、ふざけるのもたいがいにせい。謀反人の小倅のくせに、素っ首刎ねてくれる」

「何たる暴言!無礼者、名を名乗れ」

 憤怒で五郎の形相が弾けそうになって怒鳴る。

「謀反人に名乗るも勿体無いが、あの世行きの土産によっく聞けえぃ。関東管領上杉兵庫頭が家人、武蔵国荏原郡司 番場明健(ばんばあきたけ)。参る」

「第五代鎌倉公方足利朝氏、参る」

 一騎打ちする二人の周囲に半径五間(約10メートル)ほどの空きが作られる。足利朝氏の手並みが如何ほどかは、敵味方関係なく興味深いのは当然だった。固唾を呑んで成行を見守る。ただ、湯浅五郎だけが直ぐさま助太刀できる距離に詰めている。

 番場は、片手上段、朝氏を誘うために切先で円を描く。

 一方、朝氏は、手綱から手を離し、小刀牛目貫も抜き二刀遣い、腿で馬体をきつく挟んで安定を取る。

「ハイヤッー」

 掛け声とともに番場が馬腹を蹴る。馬は嘶(いなな)きを上げ朝氏へ突進。

 朝氏も馬腹を蹴り番場へと。

 二人が交差する。

 番場の片手上段が煌めく。

 朝氏の大喰と牛目貫がそれを受ける。

 番場の力任せの刀が大喰の鍔元まで振り下ろされる。

 朝氏は顔を真っ赤にして耐え忍ぶ。

「ワッパ、往生せい。苦しまぬようあの世に送ってやる」

 すかさず五郎が駆け寄ろうとする。

「五郎、助太刀無用だ!」

 朝氏が五郎を制止する。

 番場の力が更に増す。刃が朝氏の顔に触れんばかりだ。

「ソレソレ、鼻を落とすか、それとも、耳を削ぐか、一気に頸を掻っ切ってやろうか。好きなのを選べ」

 血走った番場の眼に狂気が孕む。

「朝氏ー!馬の腹を三度蹴れー」

 持朝の声が乱戦の喧騒の中で聴こえた。いや、聴こえた気がした。

 だが、朝氏は疑わない。間髪入れず馬腹を両足で三度蹴る。

 馬が後ろに退く。

 満身の力をいなされた番場が前につんのめる。

 番場の盆の窪が朝氏の眼前に…

「今だ、刺せー」

 また持朝の声。すかさず牛目貫で刺し貫く。

「ふぐっ…」

 番場の口より鮮血が溢れ出る。

「ワッパ……み…ごと……じゃ…」 

明健の体がゆらりと傾き馬からずり落ちる。

 朝氏の顔は返り血で朱に染まる。

急ぎ馬を寄せてきた五郎が、

「あっぱれな初陣並びに初手柄、お見事ございます」

「ああ…、これで私もやっと武士の仲間入りだな。だが、嫌な感触だよ、五郎…」

「これより後に御所様が御自ら手を下すなどありえないかと存じまする。御所様は将兵にご下命なさる立場ですから」

「そうか、更に気が重いな。自分で望んだ道だがな…」

 

 同じ刻(とき)、阿見小一郎は三人の足軽を相手に闘っていた。

 足軽戦法の基本は三位一体である。

 武芸の心得など無い足軽がいくさ場で生き残り、あわよくば敵を討ち取りいくさ稼ぎするには、多人数で一人と闘うしかない

 三人の内二人は十分に大人だ。妻も子もいるだろう。一人はどう見ても十五、六歳くらいか。

「お前達はどこからかり出されてきたのだ。在所はどこだ?身内は?」

 彼等の得物は、使い古された駄槍だった。腕も小一郎の相手ではないだろう。せめて、遺髪を身内に届けてやろう。

「そーたごだぁ、どうでもいいだよ。それより、この場に身ぐるみ置いでいげ。したっけ、命だげは助げでやっペ」

 刀を鞘に納めて、その場に落ちている槍を小一郎は拾い上げた。槍の柄を真ん中あたりで圧し折る。在所を言わぬなら殺す訳にもいかない。柄でこっぴどく痛めつけるくらいにしておくと決めた。

「そこの小僧、かかって来るなよ。そこで大人しく見とけ。動けなくなったこいつ等を在所まで頼むぞ」

 小一郎は小僧にそう声をかける

「そっちだって若造ぐせしてカッコづげんじゃねえ。ほら太三、いっせいにいぐっぺ」

「ほいさ、文次、おりゃ右がらいぐぅ。太三、左にまわれ」

 年嵩の二人が間合い詰めて来る。小僧は大人しく成り行きをうかがっている。

「あいづは当でにならん。意気地なしがっ」

「オリャー」

 太三が槍を突き出してくる。穂先にハエが止まるような突きだ。

 太三の鳩尾(みぞおち)に柄を入れる。力などいらない。自ら突っ込んでくるのだから。

 声も無く白目がひっくり返る。そして、崩れる。

「まだやるか」

 文次と呼ばれた男はイヤイヤをしながら後退り、ついには逃げ去った。

「こいつを連れて行け。わかったか。小僧」

「どこの誰だがもしんねえ。勝手に仲間にされだだげだ」

「おめはどこの在所だ?帰るどごあるのが?」

「お侍さんも常陸の在がいね」

 ついつられて在所の言葉がでた。武家言葉がになじんでもう忘れたと思っていたが。

「おらにしたっけ侍なんかではねえ。元は阿見の猟師の小倅よ。おめたぢど同類だ」

 小僧は、幾分安堵した表情を見せる。

「名はなんと言うんだ」

「香介」

「ほうー、なかなか雅な名だな 父がつけたのか」

「わがらね。そう書がれだ紙ど一緒に寺にかっぽられだ」

「香介、もう二度と戰さ場になど来るなよ。土ともに生きればいい」

 穏やかだった香介の顔が一変する。

「ふざげんな。俺だぢが戰さ場に出んのは食うだめだ。侍共が勝手に戦さして田畑荒らす。だのにしっかり年貢はハネる。俺だぢは好ぎで殺し合ってなんか無え。生ぎるだめにごうするしか無え」

 小一郎は、唖然として走り去る香介を見る。

 鎌倉公方だの関東管領だの、彼等には悪でしかないのだと小一郎は思いながら…

 

 

 朝氏の初陣初手柄で勢いを得た結城軍は、敵軍を鬼怒川際に追い込んだ。二百はいた兵は五十もいない。その上、肝心の関東管領上杉清方は残兵にはおらずとうに脱出していた。

 朝氏、持朝、広朝が馬首を揃えて土手の上からその様を見下ろしている。

「さて引導を渡すか」

 広朝が殲滅の下知を下そうとする。

「待て、それには及ばぬ。退き口を空けてやれ」

「いらぬ情では…」

「我等がこの関東に望むは、動乱ではない。秩序と安寧だ。そうであろう!各々方 私が起つは、我が一族のみの安寧ではない。関東に住まう全ての民草の安寧である」

 持朝等は打たれたような感銘に包まれた。

 朝氏を亡主の遺児として尊重している。だが、どこか朝氏を主君とは思えないこれまでの持朝等面々であった。

 持朝、広朝を始めとする騎馬武者達は皆一斉に下馬し、朝氏の馬前に跪き頭を垂れる。

 広朝はそれまで振るっていた采配を朝氏に捧げる。

 馬上からそれを受け取った朝氏は左右に大きく振り下命する。

「囲みの南西を空けよ」

 取り囲んだ味方兵の南西の人垣が開く。

 疑いが残兵の動きを止めたが、一塊が逃げ走ると大きな塊が一気に逃げ去って行く。

 最後に騎馬武者が一騎だけ残った。下馬し拝跪している。

鎌倉公方足利朝氏公に申し上ぐる。拙者は相模国新井城主三浦介時高と申す。お父上足利持氏公とは図らずも敵対致したが、家臣としてお目通りも致した。朝氏公の凛々しき御姿を冥府にてさぞ寿(ことほ)いでおられましょう。ご武運長久を願い奉る。これにて御免」

 三浦介時高は、馬に跳び乗ると駆け去った。

 

次回ヘ続く

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

叛乱 結城合戦 第6話 

うぬら、兵を退けー! 我が掲げし二つ引両(ふたつひきりょう)の御旗に刃(やいば)を向けるは、即(すなわ)ち逆臣也。汝(なんじ)、清方、私欲に目が眩み主君の何たるかを忘れたか

永亨十二年(1440)七月 鬼怒川河畔 初陣


 結城合戦の初戦は、永享十二年、七月十一日に突然始まった。朝ぼらけ、幕軍による大手口奇襲だった。斬り込みは無く矢合わせのみだった。

 双方に怪我人がでたが、死者はいなかった。

「矢合わせのみで切り込みがないのはどういった訳だ」

 大手櫓に立つ黒田将監持成がボソリと云った。

 救援のため駆けつけた小山広朝が、持成に並び立ち、退いて行く寄せ手の最後尾めがけて弓を引き絞った。

「当方の戦意と戦備を探りたかったのであろう」

 放たれた矢が鳥が哭くような音をたて飛んでいき、雑兵の右肩を貫いた。

「小山様、大殿がお呼びです。急ぎ軍議の席へお戻りください」

 阿見小一郎が櫓の下から叫んだ。

次の的を狙い矢を番(つが)えた広朝だったが、ゆっくり矢を靭(うつぼ)に戻した。

「兄者がお呼びとな…戦の最中というのに…仕方ない。相分かったと伝えてくれぃ」

 氏朝と広朝は兄弟である。双方とも小山氏と結城氏の当主となったのを境に表向きには、あにおとうとの呼称を辞めている。


広朝が軍議の間に入ると、氏朝と持朝、八郎久朝、桃井憲義等が、小山城下の絵図面を前に思案中であった。

「関東各地に放ってある乱破(らっぱ・忍びの者)の注進により、同族の従兄弟小山持政が寝返り、小山城を乗っ取った。広朝殿の嫡子と正室は、小山氏の菩提寺天翁院に監禁されている。広朝殿、至急、小山に戻り、裏切り者持政の首を挙げてくれ。援軍は望むまま引き連れて良い」

 氏朝の下命にしばし黙考した後、広朝は、

「私は結城を離れない。今、結城一族の私が結城を離れれば、当方の結束を疑い、内部瓦解の惧(おそ)れともなろう。拠って、私は結城に逗(とど)まる」

「しかしがら、叔父御…、広成と叔母上の身上を如何にする。直にも救出に向かわねば…」

 二年前に元服したばかりの小山広成は、持朝とって年の離れた弟のような従兄弟であり、広朝の正室結の方は、幼い頃より可愛がってくれた叔母であった。広朝が義を説くようなら持朝が情を以て救出に向かう気になった。

「叔父御に対して持朝、物申す。我等が御所様を推し戴き無謀とも思える挙兵したのは何故か…、利ではないのは申すまでもない。義ならば京におわす武家の棟梁義教公に刃向かうは不義に当たる。ただ一重、旧主の忘れ形見たる稚き三兄弟を見殺しに出来ぬ情ではなかった。如何に義に叶うとも人の情に叶わないのは正義ではない。叔父御、そうではありますまいか」

「持朝、熱り立つな。広朝殿の苦衷を察せよ」

 氏朝は、滾(たぎ)った持朝の心中を醒ますかのような静かな声音で云った。

「がしかし…」

 更に喰い下がる持朝に対して氏朝が、

「ここは広朝殿の判断に御任せする。もし、救出に出向くならいくらでも兵を出しましょう。広朝殿、遠慮無きよう」

「兄者のそのお言葉だけでも、広朝、救われる思いでございます」

 労るように頷くと、氏朝は、

「これにて散会する」

 持朝は不服ではあったが、散会を告げる氏朝にそれ以上喰い下がれなかった。


 兵二十ばかりを召集した持朝が密かに結城城を抜け出したのは、翌日の夜明け頃だった。 兵と云っても鎧武者ではなく、隠密理に広成と結の方を天翁院から脱出させるに適した乱破の者どもを率いての出陣だった。

 あと数町で鬼怒川の河畔まで来た。

「大殿に知られたら結城から追放ですね。若殿…」

 それ程困惑している風も無く、むしろ遠う足にでも向かう気な口調で阿見小一郎が云った。

「心配するな。父上から追放を言い渡されたら、私の直臣になれば良い」

 持朝は、敵への目晦ましに猟師の形(なり)をした己と小一郎を見比べた。

 いかさまにも侍臭さを払拭できない自分に比して、元猟師であったとは云え小一郎の化けぶりは見事だった。どう見ても猟師其の物で身の熟(こな)しも堂に入っている。

「若殿は足音が大きいですな。もっと小股で摺り足で歩くとそれらしくなりますぞ」

 率いた乱破の頭・つくばねの玄明がつけ足す。玄明は筑波山神社の神人を本業とする乱破である。

「あの堤の向こうが鬼怒川です。渡れば下野になります。国境には警戒の兵が駐されているかも知れません。若殿はここでお待ちを…物見を出します」

 玄明は顎で指図すると三つの影が音も立てず駆けて行く。その影が土手を越えるやいなや短い悲鳴がした。

「いまの悲鳴は…若殿…まさか…」

「やられたな、待ち伏せだ。…河畔では丸見えだ。河岸の茂みまで走るぞ。遅れるなよ、小一郎」

 背に負った藁筒に忍ばした大刀を抜き放った持朝は藪を目がけて駆けた。後を追ってくる足音で小一郎がついて来ているのを感じながら藪に飛び込んだ。すぐに小一郎も飛び込んできた。玄明と彼の手の者は藪の前に陣取り守りを固める。

「馬鹿野郎、なんのつもり…玄明、中にはいれ。そこでは狙い打ちじゃ」

 土手上に弓を構えた複数人の武者が現れた。矢が放たれ、仄暗い曙光に拘らず玄明の手下に命中した。

「無駄な手向かいは止めよ。結城の惣領が雑兵の手にかかるは末代までの恥であろう。大人しく出てくれば武士らしい最期を遂げさせるぞ。」

 上杉清方が大音声で叫んだ。

関東管領自らが朝駆けとは御苦労な事よ…余計なお世話など気遣い無用ぞ。斬り込んでこい。御相手仕る」

 持朝は負けぬ大音声で返した。

「小山広朝が出てくるかと思っていたらお前が出てきたのには驚いたわ。総大将の嫡子を討ち取るのだ。故にわざわざ儂が出張って来たのだ、有り難く思え」

「こうなれば斬って斬って斬りまくって死ぬまでだ。覚悟は良いか、小一郎、いくぞおっー」

 言うやいなや持朝藪から飛び出した。だが、持朝より一呼吸早く小一郎が飛び出した。

「出たぞー射殺せー」

 何本かの矢が小一郎目がけて放たれる。藪を背にして蛇行して走る小一郎に矢は当たらない。

 その僅かな刹那に持朝と玄明達は土手に駆け登る。

 持朝は、射手の胴丸の隙間に切先を突き入れる。玄明と手下は苦無(くない)で喉を斬り裂く。土手上の弓兵を斬り倒し土手下を見下ろす。土手下の河川敷には上杉の兵が展開している。数は二百はいる。

「さすがにこれはだめだな…玄明、逃げよ。お前達は結城の家臣ではない。俺につき合う義理はない」

 いつの間にか傍らに小一郎が戻って来ていた。

「何故戻ってきた。お前は城に無事帰り顛末を父上と朝氏殿に伝えてくれぃ。早う行け、まだ間に合う」

「何を痴れた話…若殿を見殺しにして大殿に会わせる顔などありませんよ。若殿こそ、私と玄明で防いでいるうちにお逃げください、さっお早く…」

 そうしている間にも討手が間合いを詰めて来る。その向こうの手勢の先頭で清方が薄ら笑いを浮かべ見物決めこんでいる。

「クズが…、喰らえ」

 玄明が清方目がけて苦無を放った。しかし、苦無は清方の手前で地面に刺さったのみだった。命中させるには距離があり過ぎた。

関東管領の儂に得物をなげるとは、無礼にもほどがある。かくなる上は、嬲(なぶり)り殺しにしてくれる。皆の者、かかれー 八つ裂きじゃ」

 甲高い笛の音が中空を横切った。聞き覚えのある音だった。

「これは鏑矢(かぶらや)の音だ。一体なんだ」

 眼前の敵勢の頭上に矢が降り注ぐ。

「敵だー」

「結城の援軍だぞー」

「挟まれた、もう逃げられん」

 眼前の敵兵の後方が乱れ崩れる。

 一群の騎馬武者達が、鏃(やじり)の切先が刺さるが如く清方軍を分断していく.、手向かう兵も逃げる兵も皆を撫で斬りにして。

「我こそが下野の主(あるじ)小山城主小山広朝なりー 主の留守に城を盗むなど野盗の仕業、この太刀にて成敗してくれよう」

 敵の血糊を被った広朝は鬼神とてさもありなん修羅の姿だった。普段の沈着冷静な叔父からは思いも及ばぬ変貌と持朝は慄(おのの)きを感じた。だが、妻子を危機に陥れた幕軍への怒りは妻子が有る持朝にも痛感できた。

 斬り込んできた広朝隊は持朝達を衛る形で前面に展開した。

「叔父御…、何故わかったのですか」

「儂ではない、兄者よ。早う乘れ…」

 広朝が騎馬を寄せ、己の後に持朝を引き上げた。

「父上が…」

「あやつの目の色は、このまま手を拱(こまね)いて引き下がる目ではない。必ずや城を抜け出して小山に向かう。目を離さんでくれ。息子を頼むとな…親とは有難きものよ」

「あの狸親父が…」

 親父殿にはまだまだ敵わぬと持朝は得心した。

「持朝、我が妻子のため…礼の言葉もない程に…」


 広朝の奇襲に虚を突かれた幕軍であったが、包囲を建て直した。

「油断を突かれたが、僅かな小勢で突っ込んでくるなど飛んで火に入る夏の虫ではないか、愚か者どもめが。一人残らず討ち取ってくれる、覚悟せい」

 足利清方が馬上で吼えた。

 その刹那(せつな)、疾風(はやて)の音(ね)がした。清方の隣の寄騎が叫声を上げ、血を吹き、落馬した。地面に転がった武士の背には深々と矢が刺さっている。

「愚か者は、清方、貴様じゃ。寄せ手が若殿の挙動を察知し追撃するは想定の内よ。関東管領足利清方が掛かるは想定外だったがな。ほれ背後を見てみぃ」

 蔑むように広朝が云った。

 怒気を露わにしながら清方は振り返った。清方は驚いた。

 鬼怒川を挟んだ下野側の川岸から将(まさ)に渡河を終えんとしている大軍であった。

「あれは… なぜ、あれが…わけが分からん」

 大軍以上に清方、いや、幕軍を驚かせたのは、総大将らしき先頭の武者の頭上で翻る軍旗であった。鬼怒川河畔の朝風に踊る旗は、白虎の如く猛々しかった。

「二つ引き両の家紋の旗があそこに…」

「足利の旗がなぜにひるがえるのか…」

鎌倉公方は滅亡したはずでは…」

「わしらは賊軍になってしまうではないか…」

幕軍のあちらこちらから驚愕と恐怖にかられた悲鳴が上がる。


「うぬら、兵を退けー! 我こそが第五代鎌倉公方、足利朝氏である。我が掲げし二つ引両(ふたつひきりょう)の御旗に刃(やいば)を向けるは、即(すなわ)ち逆臣也。汝(なんじ)、清方、私欲に目が眩み主君の何たるかを忘れたか」

 鎌倉公方家初代・足利基氏公が関東下向の砌(みぎり)に等持院足利尊氏)より拝領した白糸褄取威大鎧と黒韋腰白威筋兜に身を包み、牛目貫を脇に差し、右手に大喰を突き上げた第五代鎌倉公方・足利朝氏(注1)の初陣、初名乗であった。


注1 :ここで登場した第五代鎌倉公方足利朝氏は史実では存在しません。あくまでも物語上のフィクションです。何卒ご了承くださいませ。ただし、春王達三兄弟は実在しました。

 

 


次回ヘ続く

 


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

叛乱 結城合戦 第5話

前(さきの)関東管領殿、そなたの心中の苦渋は惻隠する。だが、私も武士、まして、今や鎌倉公方家の惣領である。喩(たと)え、身が八つ裂きになろうとも、父上の辱(はじ)を雪(すす)ぎ、鎌倉公方家の再興を目指さなければならないのだ

 

 


前節からの続き


永亨十二年(1440)五月 結城城 軍使来城


「大殿、大殿は何処におられる、一大事でござる…大殿、何処か…」

 結城城内四つの館をつなぐ回廊を、大声で氏朝を呼ばわりながら東の館に飛び込んできたのは、大手口守護番の黒田将監持成の倅、新九郎であった。

「七郎、今日は何日になるか」

 持朝、春王改め朝氏、安王、永寿王等とともに車座で朝餉(あさげ)中の氏朝が問うた。

「今日は五月八日です」

 隣に座る永寿王の日干し鰈の身を解してやりながら持朝が応えた。

 朝粥を啜り込んで椀を膳に戻すと、氏朝が

「意外に遅かったな。そうはおもわぬか、七郎」

「寄せ手の意思統一が捗々(はかばか)しく無いのでありましょう」

「大殿、やっ、若殿も、おっ…御所様までも」

 回廊から氏朝達の様子を見て、新九郎は恐縮し立ち竦んでしまった。

「御無礼いたしました。ただ、一大事が発生した次第で…」

 白湯を一気に飲み干した持朝が、

「幕軍から使者が来たのであろう」

「たしかに軍使が来ています。ただ…」

「ただとは…」

 氏朝が朝餉の膳を傍らにやった。

「実は…」 

 言いかけたが、新九郎は空気を読んで言い淀んだ。

「御所様と御曹司はそのままお召し上がりくださいませ。七郎は儂と客殿に参れ」

「氏朝殿、私も一緒に、是非ともに」

 朝氏は、着慣れない小袖の乱れを直し後を追った。


「春王様、お久しぶりでございます。ご立派に成られて…感無量にございます。このような仕儀にいたりましたが、この憲実、鎌倉公方への忠誠を決して忘れたわけではございませぬ」

 幕軍の総大将上杉安房守憲実が客殿の下座に平伏して、上座の朝氏に言上した。

「私はこの度、元服し…」

「総大将自らの御来城、して御用向きは如何に」

 氏朝は、無礼を承知で朝氏を遮り、言を重ねた。朝氏に視線を送り、まだ内情語らぬ方が良いとの意図を込めた。

「春王様、ここは開城していただけまいか」

 憲実は朝氏に言上する。旧主の御曹司に願い奉る体を装い氏朝に云ったのだ。前関東管領としては一領主の氏朝に願うことはできず、かといって御曹司の朝氏に命令もできない。老獪な上杉憲実らしい。

「僭越ながらこの氏朝、全権を託されてもうす。開城の条件は、

一つ、当城におわす三人の御曹司の身柄の安全を約する事。

二つ、春王様元服後は、速やかに鎌倉公方就任を約する事。

三つ、城内の将兵の身の安全を約する事。

この三点、如何に」

 憲実の顔色がみるみる紅くなり、そして、青白く変わった。

「確約は出来ぬが最大限尽力致そう」

〈しかし、京におわす将軍家が許すまい。あの気性が故…〉憲実は心中で呟いた。

 上杉憲実の脳裏には、二年前、あの時の痛恨と慙愧が生々しく蘇っていた。

 永享十年(1338)、朝氏達三兄弟の父と長兄・主君の足利持氏、義久に対して保身の為とは云え合戦に至り、敗走させ自害に追い込んだ。(永享の乱

 降伏した持氏義久の助命嘆願の根回しと交渉に、憲実は持てる政治力と財力を傾注した。

 しかし、権力の二重構造を断固として容認しない将軍義教は、持氏義久父子とその血脈の断絶を厳命した。

 持氏は、蟄居処の永安寺(東京都世田谷区大蔵)で家臣共々自害して果てた。

 春王三兄弟が逃亡したのを承知していたが、憲実は形ばかりの探索に終始し捕縛するつもりは無かった。日光山に潜り込んだとの消息を聞き、そのまま大人しくしてくれと願っていた。義教公が代替わりすれば風向きも変わると踏んでいたのだが…

「春王様、何故、日光山から降りて来られた… あと十年、いや、五年もすれば時勢も変わろうのに。結城殿、御曹司を担いて挙兵などされたのか…隠密理に匿われるだけになされなかったのか…」

 しばし、荒涼とした重苦しさがその場に充満した。そして、その荒涼を消し去ったのは、やはり、朝氏だった。

「前(さきの)関東管領殿、そなたの心中の苦渋は惻隠する。だが、私も武士、まして、今や鎌倉公方家の惣領である。喩え、身が八つ裂きになろうとも、父上の辱(はじ)を雪(すす)ぎ、鎌倉公方家の再興を目指さなければならないのだ」

 覇気に充ちた品格で朝氏は、家人前関東管領・上杉憲実に申し渡した。

 気に打たれたように憲実は、平伏叩頭した。

「本日、訪(おとな)ったのは、これを春王様に御還しするため。左門、例の物をこれに」

 次の間に控えていた侍臣多田左門が進み出て、紺緞子(こんどんす)の包を憲実の脇に置いた。

 憲実はその包を捧げて、朝氏に献上した。

「包をお取り下さいませ」

 憲実にそう云われた朝氏は包を開けた。

「これは…大刀と小刀…」

 朝氏が柄を握る。

「この差料は、大刀が大食〈おおはみ〉、小刀が牛目貫〈うしめぬき〉。どちらも足利家の重宝、鎌倉公方家重代でござる。特に、牛目貫は持氏公がお腹を召された小刀でございます。春王様がお持ちに成るべき御刀と思慮し持参いたしました」

「前関東管領殿、忝(かたじけな)い。流浪の身であった私は未だ分限(ぶげん)に合う差料を持たぬ。そなたの心遣い痛み入る」

「春王様、その装束と髷から察するに元服を済まされたのか…あいや、それは聞きますまい。ただ、この後は憲実とお呼びください。所用は済みました。これにて御免蒙りましょう」

 憲実は、再度、朝氏に平伏した後、

「中務大輔殿、お互い戦うは武士の習いなれば、せめて良い戦をしようぞ」

「承知いたした。安房守様も次に戦場で相見えるまでご健勝でおられよ。この後は敵味方、お見送りは致さぬ程に」

 

 


次回ヘ続く

 

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。


 読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

 

 

 

 

 

叛乱 結城合戦 第4話

氏朝殿、持朝殿…いや、父上、兄上、流浪の身と云えど春王は武士の子、戦場にて足利の旗を掲げ名乗りとうございます。何卒、元服の儀お願い致します。

 

前節からの続き


永亨十二年(1440)四月 結城城 仮初(かりそめ)の元服

 

 櫓(やぐら)から見下ろす視界を埋め尽くすは関東管領(幕軍)方の軍勢であった。

 幕軍の陣容は、総大将・前関東管領(ぜんかんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)、副将・現関東管領上杉兵庫守(ひょうごのかみ)清方(きよかた)。憲実は隠居し、弟清方に関東管領職を譲っていたが、将軍足利義教の厳命により引っ張り出されてしまった。

 他に、義教より幕軍の証である旌旗(せいき)を下賜(かし)された上杉持房(もちふさ)が尾張美濃(愛知県岐阜県)の兵を率いており、奥羽鎮守に派遣されていた上杉教朝(のりとも)が奥羽兵三万をひきつれて合流した。守護大名としては、信濃守護・小笠原政康、甲斐守護・武田信重、越前守護・朝倉教景、駿河守護・今川範忠、相模守護・上杉修理太夫(しゅりだゆう)持朝(本稿では結城持朝との混同を避けるため、上杉修理と表記する)、その他国人領主を含めて約十二万の大軍であった。

 対する城方は、主将結城氏朝、嗣子持朝、氏朝の舎弟八郎久朝、同じく舎弟山内氏義、氏朝の生家である下野小山家当主小山広朝とその一門衆。水谷時氏、黒田将監(しょうげん)、山川式部(しきぶ)、梁田修理等の重臣。その兵力約一万である。

 数の上では、幕軍の十分の一に過ぎないが、本城結城以外に、西方三里(約9キロ)に小山城(栃木県小山市)、南方五里(約20キロ)に古河城(栃木県古河市)、南方七里(約30キロ)の関宿城(千葉県野田市関宿町)。これら三城を連携し、広範囲な防衛線を形成している。

「壮観だな…天下の兵を足下に集め戦を始める。武士(もののふ)冥利に尽きるというものよ。そうは思わぬか、持朝」

 父氏朝の心底嬉しげな眼差しを見返した。〈誠に嬉しそうな顔をなさいますな…父上。結城がこれにて滅びるかもしれぬのに…〉歴戦の武将とはかくも剽悍(ひょうかん)な気性になるものかと持朝は半ば処置無しと呆れた。

 氏朝の傍らに立つ久朝叔父が、

「武者は生甲斐よりも死甲斐だ。これだけの大戦さ、後世までの語り草になろうよ」

「ましてや勝ったとなれば、兄者の武名は尊氏公にも匹敵いたしますな」

 氏義叔父が軽口を入れる。謹厳な父に比して、この叔父はいかさま軽薄であった。

「ところで御曹司に伺いたい此度の戦で最も心がけるべき要諦(ようてい)なんとおもわれるか」

 櫓の上の鎧武者に交じっての水干では目立ちすぎる。敵方との距離は十分あるが万が一を危ぶみ、体より大振りな持朝の甲冑を附けた春王に氏朝が問いかける。

「すべての戦いに勝ち続ける」

 少年らしい熱を放つ口調で春王が答える。

「まちがいではないが、少し違う」

「……」

「今一度お考え下さい」

「……… やはり勝たねばならんと」

「武将は別段勝たなくとも良いのです。勝ち続けるなどは神仏の所業。唯一無二の肝は負けぬこと」

 小山本家の広朝が、

「氏朝殿、御曹司にはまだ…」

「では、言い様を変えよう。この戦に勝つ方策は、長期戦に持ち込むこと。彼等は皆、領地を離れてしかも手弁当で包囲しておる。いかに幕命とは云え本気で戦いを望む輩なぞ一人もいない。つまり、撤兵の…」

「そうですね。わかりました。長期戦に持ち込んで、彼等自身に撤兵の大義名分を見つけさせればいい」

 春王の明敏さに満足したように氏朝は頷いた。

「それでこそ未来の我等が御大将。感服いたしました」

「父上、軍議の刻限となります。陣屋へお願いいたします」

「相分かった。諸将の方々は各々割当の巡視後、陣屋に参集頂こう。小一郎はおるか、おまえは寄せ手の陣立てを書き写しすぐさま陣屋にもってくるのだ」

 小一郎とは、霞ヶ浦の湖岸の集落、阿見で氏朝が見出した猟師の子供で元の名を小市といった。利発気な双眸(そうぼう)と俊敏な身のこなしを気に入り侍者として召し出した。名は阿見の出身であるから「阿見小一郎」と名乗らせ武士として養育してきた。

「承知いたしました。絵図面はすぐさま陣屋へお届けいたします」

 小一郎はひざまずづき、半紙と筆を受け取った。

 櫓に固定された梯子段を降り陣屋になっている東の館に氏朝父子が向かう。

 東の館は、表は結城の政庁であり、奥は氏朝夫妻の居所である。西の館は持朝夫妻の居所だが、今は春王達一行の居所にしており、持朝夫妻は東の館で父母と同居している。

「父上は小一郎に格別目をおかけですが、私にはただの若者にしか見えませぬ。あいつの何をそれ程までに買っておられるのですか」

「あいつがまだ十になるかならないかだったな。あいつの父の茂市は、それは大した猟師でな。儂も狩猟が好きであったから、領主と領民の枠を超えて猟師として親しくしてもらいお互いの技を教え合う仲よ」

「猪肉や鹿肉、時には熊肉を喰らうた思い出がございます。あれは父上が射倒した獲物でしたか。それにしても旨かった」

「ここからが話のキモよ。猟とは戦と同じ。狗(いぬ)が足軽、勢子が徒(かち)、射手が侍、大将たる猟師が彼等を自在に操り鹿や猪をこちらの思う壺の場所に導くのじゃ。戦と同じと思わぬか」

 東の館の前庭に設われた陣幕と床几に腰を下ろし、氏朝が続ける。

「畜生とはいえ獲物も必死、思わぬ動きや時には反撃にも遭う。猟の成功率は五分五分であろうか… ところが、十かそこらの小一郎に手配りさせると十中八九狙った場所に獲物はおいこまれてくるのだ。父親の見様見真似とは云え、あやつには戦を組み立てる才あると儂は確信している」

 時折、敵方の威しの喚声が上がるのを父子は聴くとは無し聴いていた。単なる威しなのは、敵方から立ち昇る炊煙で知れた。

 城内の各割当の巡視を終えた諸将が陣幕をくぐり己の床几に着した。

 立ち戻った小一郎が氏朝の面前に跪き半紙を差し上げた。

「お待たせいたしました。当城を包囲する軍勢でございます。旗指し物から凡そ判別いたしました。総勢ざっと十万と思慮いたします」

 氏朝が目を通す。書かれている内容は、

 

 大手口(おおてぐち) 坤(ひつじさる・西南)の方面

関東管領・上杉清方軍 北関東勢


搦手口(からめてぐち)乾(いぬい・西北)の方面

搦手大将上杉修理太夫持朝 南関東


艮(うしとら・東北)の方面

大将上杉教朝 奥州勢


巽(たつみ・東南)の方面

大将上杉持房 東海信越


大手口軍の後方に前関東管領、総大将上杉憲実の陣

 書付を回覧し、氏朝や持朝、諸将間で質疑応答がかわされた。

「大山相模介殿の旗印は見えたか」

 持朝が小一郎に問う。

「相模介様の旗印はございませんでした」

「そうか、つけ入る隙もまだあるな… 父上、言上したき事がございます」

「わかっておる。なかなか良い目の付け所じゃ 持朝。そちに任せるゆえ。やってみよ」

「承知いたしました」

 全員が口を閉じたのを見計らって氏朝が立ち上がった。

「ご参集の諸将の方々に申し上げる。近日には軍使が参られ御曹司の引き渡し要請があろう。もちろん峻拒いたす。さすれば本格的な戦に突入する。各々抜かり無く持場を固めてくだされい。訊きたき儀がなければ解散といたす」

 

結城城 東の館 氏朝の居室


 北常陸、北下総、東下野の絵図面を広げ、駒を並べては元に戻す。考え込んではまた氏朝は駒を並べる。それをなにも言わず持朝が見ている。

「大山には誰を遣わすのだ」

 相模国の絵図面を広げ、大山阿夫利神社に駒を置きながら氏朝が尋ねた。

「小一郎をまず行かせようと考えます。その手応えによって私が行ってもよいかと」

「小一郎に任せれば良い。あやつなら十分役目を果たす。そのように鍛えてきた」

 次の間から侍臣の声があり、春王の来意を告げた。

「このような夜半に何であろうか…わかるか七郎…」

「いやわかりませね。はてさて何でしょうね」

 襖がゆっくり開き、敷居の向こうで叩頭した春王が座っていた。

「こんな夜分にご来処とは…御用ならば、この氏朝か七郎をお呼びくださいませ」

「とんでもございません。公子だ御曹司だの呼ばれても、我らは謀反人の子、結城殿の助力がなければ明日をも知れぬ身の上、心得ております」

「御曹司は、将来、我等が主君たる御身分、軽々しく家臣にへりくだるものではありません。ササッ、こちらへ」

 氏朝は春王に上座を譲り、持朝が父の背後に坐した。

「さて、どのような用向きで参られたのかな。承りましょう」

 板間の木目を指でなぞり、云うか云うまいかを春王は未だ逡巡している。しばし沈黙が流れる。氏朝は苛立つでも無く鷹揚に春王を待った。

 待たれていると察した春王の

頬色が紅く上気する。

「厄介者の分際でこのような願いを口にするもおこがましいのですが、氏朝殿を烏帽子親として元服いたしたく存じまする」

 思いもよらね願いを耳にした持朝は言葉を失った。目前に雲霞の如き敵軍が迫ったこの時に元服とは…まして足利嫡流の御曹司が…

「御曹司、それはあまりにも常軌を逸した…」

「云うな、七郎」

 持朝の言をピシャリと遮り、氏朝は春王の目の深淵をのぞき込むような眼差しを春王に向けた。

「戦の渦中のこの時に元服をし、足利の旗を挙げるが意味する処をご存じか」

「わかっております」

「いや、わかっておられぬ。万が一この戦に破れた場合、もちろん負けぬ算段はしている。だが戦に絶対などないでな。負けた場合、元服前の稚児ならどこぞの寺に預けられ罪一等減ぜられる可能性もある。だが、元服を済ませ名乗りを定め、足利の二つ引両(ひきりょう)を旗印を掲げるは、京の将軍家への明白な反逆、地の果てまでも討滅の軍が来ますぞえ」

「もとより覚悟の上での申し出でございます」

 持朝に踵を返した春王が、

「先般、持朝殿は、生まれ育ちは違えども死する時は同じとおっしゃいました。頼るべきも信じるべきもない春王、我ら兄弟にとってあのお言葉、どんなにか心強くうれしゅうございましたか。どうか持朝殿からも氏朝殿にお願いしてくだされ」

「五郎、そこに控えておろう」

 背後の襖に向かって持朝が云う。襖が音も無く開くと、湯浅五郎が平伏している。

「お前が手塩にかけ育て我が子同然の御子を戦に巻き込む次第となるぞ。それで良いのか」

 湯浅五郎は、深く頭(こうべ)を垂れたまま、

「御曹司を御守りするためなら天涯(てんがい)の地までも参りましょう、もし、御曹司が戦うとあれば馬前で死するになんの悔いがありましょうや」

 ここぞとばかりに春王は、 

「氏朝殿、持朝殿…いや、父上、兄上、流浪の身と云えど私も武士の子、戦場にて足利の旗を掲げ名乗りとうございます。何卒、元服の儀お願い致します」


 この翌々日、春王は、結城中務大輔(なかつかさだいゆう)氏朝を烏帽子親として元服した。

名乗りは氏朝から偏諱を受け、「第五代鎌倉公方・足利朝氏」と定めた。


「これより結城は、この御方を主君と仰ぎ粉骨砕身の働きを見せようぞ」

 城内前庭に集合した結城一族を始めとする武者達を前に氏朝は高らかに宣言した。

 階(きざはし)には、鎌倉公方家伝来の甲冑を身に着け、頬を朱く上気させた足利春王改、五代鎌倉公方・足利朝氏が屹立(きつりつ)している。

 

今回は、武家元服について語ってみたい。(ただし、時代、土地によって見解や事象に差がでるので、何卒、ご了承くださいませ)

 元服とは今日の成人式の事である。ただ、昨今の荒れた馬鹿騒ぎと違い謹厳な作法と伝統に培われた儀式である。

 上は天皇から公家や武家、下は庶民に至るまでが、早くて十二、三歳から二十歳位までに迎える。

 早い例で云えば、徳川七代将軍徳川家継が五歳、遅い例では、本稿の敵役の足利義教が三十六歳である。両名とも極めて政治色が濃厚な元服で一般的ではないが…。

 元服前後で変化するのは、装束と名乗りである。

 名乗り関して説明すると複雑で長くなるので今回は、装束に関してのみお話する。

 「千と千尋の神隠し」をご覧になった方も多いと思うが、ヒロイン千尋を助ける「ハク」という白竜の化身の少年の姿を思い浮かべていただきたい。

 あの姿が、元服前の男子の典型的な装束である。あの装束、は「水干」と呼ばれ、上着を頭から被り、短袴もしく袴を履く。

 髪型は「禿(かむろ)」、今で云うオカッパで肩まで伸ばす。もしくは、稚児髷と呼ばれる前髪を残した髷を結う。

 近世(戦国末期から江戸)以降は大人の装束とあまり変わりなくなる。ただし、髪型は前髪を残す稚児髷は同じである。


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 元服後は、礼式では直垂(ひたたれ)を着用する。直垂は、主に武家社会で着用された装束である。現代で直垂を着用した人間を見たいなら大相撲をご覧いただきたい。取組を仕切る行司が身につけた装束、あれが直垂である。

 髪型は、少年期に肩まで伸ばしている髪を総髪(オールバック)にし後頭部で立ち上げ、一本にまとめた型がひとつ。

 前頭部から頭頂部の髪を剃り、側頭部の髪を後頭部に集め一本にまとめて髷を作り、剃った頭頂部(月代〈さかやき〉と読む)に載せる型がまたひとつ。そして、頭上に烏帽子を載せる。

 烏帽子には皇族や公家が被る円筒で高さがある立烏帽子など種類があるが、侍は侍烏帽子を被る。形は現代の相撲の行司が被っているのと同型である。


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次回ヘ続く

 

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。


 読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 

叛乱 結城合戦 第3話

悪御所だと!万人恐怖だと!好きに呼ぶがいい!! 余は征夷大将軍足利義教である。余の道を阻む者が仏ならば仏を殺し、神ならば神をも殺す。


 前節からの続き

 本稿において、足利義教は悪役で登場している。これまでの足利義教歴史的評価は散々である。悪御所、万人恐怖と称され専制恐怖政治を布いた。彼の意向で誅殺された大名も少なくないとされる。当時の記録よれば、義教の逆鱗に触れ処罰された者は、公卿五九人、神官三人、僧侶十一人、女房七名、この数字には武士と庶民は含まれておらず、実数は更に増えるとされる。中には酒の酌が不調法として尼にさせられ侍女、説法した僧侶の舌を切るなどなど、もはややりたい放題である。

 誇張であると思うが、義教に召された武士は、出掛けに家族と水盃を交わし、直垂(ひたたれ)の下には経帷子(きょうかたびら)を着て御前に伺候したとの伝聞がある。

 足利義教は、室町幕府第三代将軍足利義満の子であるが、何番目の男子かは不明である。幼名は春寅と云い、出家得度後、義円と号した。天台座主(てんだいざす・比叡山延暦寺のトップ)にまでなっているので将軍後嗣にはなれなかったとしても、有能であったのはまちがいない。兄・四代将軍足利義持、甥・五代将軍足利義量の死去の跡を受け将軍に就任した。前記したように、残った義満の子達、四兄弟のクジ引きの結果の就任であった。依って、世に「籤引き将軍」と揶揄された。

 将軍就任の経緯は不本意であったかもしれないが、就任後は、俄然やる気を発揮した。義教の目指す政事は、父・三代将軍足利義満の治世の再現であったと思われる。

 父足利義満は、長く抗争に明け暮れた南朝を実質上、北朝への吸収の形での南北朝合一(明徳の和約・明徳三年 1392年)を成し遂げ、権力の二重構造を打倒した。また、山名氏、土岐氏等の有力守護大名を屈服させ、一時的にせよ将軍専制を実現させた。

 争乱が止む間が無かった室町時代で数少ない平穏な時代を創出させた。まさにパックス・アシカガーナである。

 対外的にも、義満は日本国王・源道義の名で明王朝・建文帝より冊封(さくふう)され勘合(かんごう)貿易を独占し莫大な利益を産んだ。

 偉大な父は、幼かった春寅の眼にも眩しかったであろう。

 前記を教導として義教は、室町将軍家の政治的経済的な中央集権統治の実現を目指した。

 比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長が有名だが、最初に比叡山延暦寺焼き討ちを決行したのは、足利義教である。

 宗教が権威だけでなく権力を保持しようとするのは、古今東西変わりない。中世期、延暦寺始め、興福寺南禅寺祇園社(八坂神社)、日枝神社、北野神社等の寺社仏閣は、現代のコングロマリットと変わりない。金融業、不動産業、流通業を支配していた。

 例えば、延暦寺日枝神社の貸出金利はなんと年利70%以上であり、返済不可能(なるに決まっている)になれば容赦無く土地を差押えた。差押えた土地を人に貸し地代を取る。また、寺社仏閣はそれぞれ独占専売品を持ち流通を牛耳った。酒は延暦寺、油は南禅寺、織物は祇園社(八坂神社)といった具合に暴利を貪り食う。その上に厄介なのが、各々が私兵(寺は僧兵、神社は神人)を養っており、利権の妨害には兵力以て対抗した。いわば、少し前に世界を震撼させたイスラム国の日本版である。宗教の全てが善良ではないのは歴史の真実である。

 少しは骨のある為政者が、これを黙って受け入れる理由がない。まして、足利幕府の復権、将軍家専制を目指している足利義教である。焼き討ちするのは避けては通れない。

 焼き討ちにより比叡山延暦寺を屈服させた義教の次なる標的は、権力の二重構造の根源、鎌倉府・鎌倉公方の存在である。折よく起こった鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の内紛を利用し、鎌倉公方家を滅亡に追い込んだ。と、ほくそ笑んだところに飛び込んできたのが、

持氏の遺児三人の鎌倉脱出と結城城入城だった。


永享十二年(1440)京 室町御所


「御所様の御成ーぃ」

 高らかな発声ともに襖が開いた。性急な歩揺で回廊を渡ってきた小男が着座する。脇息はあるにはあるが、形ばかりで凭れ掛かりはしない。

 一段高い厚畳の御高座が、室町幕府六代将軍足利義教の定位置である。

 三管領四職の幕閣が御前に居並ぶ。

 十四代管領細川右京太夫持之、細川讃岐守持常の細川京兆家、畠山左馬助持永等の三管領家の面々。

 赤松兵部少輔満祐、京極加賀守高数、山名左衛門佐持豊等の四職家の面々。

 そして、この場には場違いな男が次之間に控えていた。

「よくもおめおめと顔を出せたな、安房守」

 前関東管領の上杉安房守憲実である。この度の子細言上のため鎌倉から呼び寄せられた。本来ならば、実弟の現関東管領上杉清方が参上すべきところ、清方が結城討伐参戦のため、憲実が代参した。〈そっちが呼んどいておめおめとはふざけるな〉と憲実は腹蔵で毒づいた。

 老練不敵な憲実は、そんな腹の内をおくびにも出さない。地面に叩きつけられた蛙(カワズ)のように畳に這いつくばったままだった。相手はお手討ち上手の悪御所義教だ、下手に頭を上げれば文字通り首が跳んでも不思議ではない。

 細川持之が伺いをする。

元服も終わっておらぬワッパのこと、三人まとめて鎌倉五山にでも入れて出家させるというのいかがでございましょう?」

 義教は、眼に凄みを効かせて持之を睨むだけで済ませた。流石に現職の管領を頭ごなしに怒鳴りつけるには遠慮があったのか…

「左衛門佐、如何思うか。存念あれば申せ」

 義教は、お気に入りの謀臣、山名左衛門佐持豊に意中を質した。

「出家などとんでも無き事でございましょう。結城に入城する前なら隠密理に捕縛し、出家も看過できたかも知れませぬ。しかし、城に立て籠もり、公然と幕軍に反旗をあげた以上、遺児三人、結城一族とその一党は根絶やしにせねばなりませぬ。御所様の目指す新しい政事の実現に必須でありましょう」

 義教は満足気に目を細め、持豊の言葉に大きく首肯した。

「左衛門佐、見事じゃ。四職ではまだ年若だが、その見識、誠にあっぱれである」

 山名左衛門佐持豊(後の宗全)は、後には山陰山陽十カ国の太守と成り、応仁の乱・応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年)において西軍の総大将となるほどの権勢を持った。ちなみに東軍総大将は前出細川持之の嫡子細川勝元である。

〈若輩者のごますりが…しゃしゃり出おって〉と細川持之と畠山持永が露骨に舌打ちをした。

「して、いま結城への寄せ手はどんなじゃ」

 畳にへばりつく上杉憲実が顔だけ義教に向けて、

「城方は約一万、他に佐竹、小山、宇都宮の城外の合力がございます。が、積極的な戦意は無きに等しく、結城落城の報に接すれば速やかに開城するでありましょう。ただ、城方の戦意と防備は侮り難く存じまする」

「この愚か者がッ 城方などどうでもよいわ。余が知りたいのは、寄せ手は何日で結城を皆殺しできる?その一事だけじゃ」

 義教は怒号を発し、憲実の頭上に歩み寄り、手にした扇子で憲実の眉間を激しく打擲した。憲実の眉間は切れ、一筋の血が滴った。打ち振るわれたのが小刀ではなく扇子であったのは不幸中の幸いと一座の者たちは安堵した。

 それまで寡黙であった一座の年長である赤松兵部少輔満祐が口を開いた。

「御所様に申し上げます。去る永享七年、比叡山延暦寺を焼き討ちなさいました。同じ元号内のこの度、同じ足利の御名を戴く一族、しかも年端も行かぬ子供を討ち滅ぼすのは仏罰神罰が怖ろしいかと思慮いたします」

 一瞬皆に背を向けた義教は、刀架から大刀を手にし抜き放った。皆が蜘蛛の子を散らすように逃げた。

「兵部、その物言い、良い度胸だ。素っ首刎ねてやる。そこになおれ」

 義教の激高に臆する素振りを微塵も見せず、老臣満祐は静かに云った。

「この白髪首など今更惜しむ歳ではないが、儂のように命懸けで諫言する爺ぃを切り捨てるようであれば、世も末である」

 満祐の言葉を聞くか聞かずの間に義教の太刀が一閃し、満祐の髻が宙に飛んだ。

 それでも義教を睨み上げるザンバラ髪の満祐が御所勤仕の輩に脇を抱えられ、その場から連れ去られた。

「悪御所だと!万人恐怖だと!好きに呼ぶがいい!! 余は征夷大将軍足利義教である。余の道を阻む者が仏ならば仏を殺し、神ならば神をも殺す」

 室町御所中に鳴り響かせるように足利義教は絶叫した。


 赤松兵部少輔満祐の隠居、播磨(兵庫県西南部)の所領が没収されるとの風聞がまことしやかに京の都に流れるようになった。


次回ヘ続く


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。

 読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 もし良かったら次回もお読み下されば嬉しく思います。

 

 

叛乱 結城合戦 第2話 

春王殿、われら生まれ育ちは違えども、死するは同じ時、同じ場所。この竹林で誓いし限りは七生の友垣(ともがき)ぞ。爾(なんじ)が劉備玄徳たりえば、我、結城持朝は関羽雲長ならん

 


前節からの続き


永亨十二年(1440)二月 結城城内 氏朝の寝所


 内陸の結城は、海沿いの平や日立より寒さが厳しい。その分、大気は澄み、日光颪(おろし)が雲を飛ばし、月は蒼々と美しい宵であった。いつもより早く寝所に籠り月を眺めながら氏朝は人を待っていた。普段ならば火桶など使わぬが今宵は特別な思いがあり用意させた。

 庭に現れた人影は音もなく縁に畏まった。

「お召により長沼秀宗、罷り越しました」

「秀宗、庭から来て欲しいなどと無礼を申しかたじけないの。さっ早う中に入れ、入れ、火桶を用意してあるでな」

「昼間は家老とは云え殿にあのような雑言を吐きましたことお詫び申し上げます」

 昼間の評定の言い争いを気にしているのか、縁から上がってこない。

「お互い結城を思ってのこと。儂はお前の忠義を疑ったりはしない」

「ありがたき幸せ、嬉しく思います」

 縁に座った秀宗が平伏した。

「なら早く上がれ…寒くて叶わん」

「ならばご無礼つかまつる」

 座敷に上がり、引戸を閉めた秀宗がその場で再度平伏した。

「火桶をつかえ」

 火箸で炭を換え組み赤火を起こし、氏朝は秀宗の傍らに火桶を押し遣った。

「お前を呼んだは、格別の用向きを頼みたいからじゃ」

 秀宗は、特段驚いた様子もなく静かに聴いている。

 日光颪の哭くような音と炭が爆ぜる音がしばし辺りを包んだ。

「どのような御下知でも何也とお申し付けくださいませ」

 口を開かぬ氏朝の内心を察して、秀宗が先に口を開いた。

「うっうん… そうだ、酒でも持ってこさせよう。まずは呑もう」

 ビシッと音立てて扇子で床を叩いた。

「殿は幼き頃よりたまさか優柔不断な質がござる。御大将がそれでは困り申す。はっきり為されよ、さもなければ拙者は帰らせていただく」

 それでもまだ決しかね逡巡していた氏朝だったが、意を決して、

「ならば云うぞ」

 氏朝は立ち上がり、威儀を改めた。秀宗は頭を下げ命を待った。

「長沼備前守秀宗に申し付ける。本日ただいまより、結城家家老職を解き、当家追放に処する。速やかに退転すべし」

 さすがに驚きは隠せぬ様子の秀宗だったが、それでも努めて冷静な口調で、

「解せませぬ。如何なる理由で…、昼の無礼はお赦しくださったのでは…殿、なぜ…、得心がゆきませぬ。理由をお聞かせ下さいませ」

 茵(しとね)に一旦座った氏朝がくるりと秀宗に背を向けた。

「末子の四郎、連れで行ってぐれ…秀兄ィ」

 氏朝の肩が小刻みに震えていた。 

 束の間の無言のあと、秀宗が絞り出すような声で

「エッ…まさか……七郎、おめぇ…」

 氏朝は幼い頃、隣国下野国(栃木県)の小山家から養嗣子(ようしし)として結城家に入った。元服前でまだ七郎と名乗っていた頃だ。嗣子とは云え、他家から来た身には心細い限りであった。そんな氏朝の傅に選ばれたのが秀宗であった。

 秀宗は陰日向無く氏朝を庇い導いてくれた。十を越えたばかりの氏朝にとって九つ違いの秀宗は、まさに慈兄であった。元服後には、武将の気構えや政事の要諦を教え諭された。

「鎌倉以来十二代続いた結城を断絶させらねだぁ。おめさんには苦労がげるがもしれねえが、四郎担いでいづが結城を再興してぐれ。そんだがら、いまは逃げでぐれ」

 震えている氏朝の肩を力で抑え込み、自らの方に向きを変えさせ、いつかの教え諭すかのような口調で秀宗は云った。

「おめがそごまで考えでだが、なら、もうなにも云うごどはねえ、四郎は必ずや結城の頭領すっから 七郎…安心して死ね」

 床に両手をついたまま氏朝が、

「秀兄ぃ。多賀谷氏家(たがやうじいえ)を形ばがしの討手に差し向げるっぺよ。あいづも切れ者だがらかならず頼りになるはずだっぺ」

「けんど、氏家は納得づぐが?」

「心配すんな。あいづは頭がいい男だよ。秀兄ィが四郎連れで逃げだ、討手になれど云えば全で察する。でーじょーぶだ」

 天を仰ぎ大きく息を吸い込み、そして、ゆっくり吐いた後、秀宗は深々と平伏し、頭を伏したまま、

「この長沼秀宗、命に替えましても四郎様をお守りし、結城の社稷(しゃしょく)を必ずや再興してみせましょうぞ。殿、ご照覧あれ。では、これにて、おさらばでございます。武運長久をお祈り申し上げます」

 と云い、入って来たのと同じように音もたてず辞去した。

 翌朝、長沼備前守秀宗は一族と氏朝の四男、三歳の四郎を連れて結城城から逐電した。

 城内では家老の逐電を、しかも、主君の末子を人質にしての逐電を詰(なじ)る空気で満たされた。

 氏朝の激怒は怒髪天を衝く有様で、直ぐさま、氏朝の腹心である多賀谷氏家が討手の命を受けた。家臣城兵衆視の中、氏朝は多賀谷氏家に厳命した。

「秀宗の首級を取るまで結城の地を踏むこと能わず。秀宗を地の果てまでも追いつめ、かならずや奴の首を我が面前に供せよ。よっっく分かったな、氏家…、よーくだぞ…わかったならば行け」

 探るような眼つきで氏朝を見上げていた氏家は、突然、顔を歪め地べたに平伏した。

「承りましてございます。殿の御命令必ずや守りまして全う…いたします。ウウッ」

 氏家は堪らず嗚咽がでた。が一息だけ点くと、

「では、この場より直ぐ逆臣秀宗を追いかけまする。殿、これにて御免」

 立ち上がった多賀谷氏家の表情はいつもの聡明さを取り戻していた。

 

 

竹林の誓い

 

 結城は豊穣の地であった。関東平野の北辺に位置し、北関東一の大河である鬼怒川とその支流の田川流域に立地している。故に農耕には好立地と云えた。

 鬼怒川は、またの名を絹川(衣川)とも表す。普段の穏やか流れは絹布が如く滑らかであるが、一度荒れ狂うと文字通り「怒れる鬼」の形相を見せる。日光連山を躍り出た急流が、一気に関東平野に流れ込む、当に怒れる鬼の所業であったろう。しかし、洪水が運んできた肥沃な土壌が結城を豊穣の地とした。エジプトならぬ結城は鬼怒の賜物であった。

 鬼怒川は、古代、「毛野川」と書いた。北関東一帯は古代豪族「毛野氏」の治める地であった。旧国名の上野(こうず毛)下野(しもつ毛)はその名残である。現在の表記である「鬼怒川」になったのは、意外にも明治九年からである。今は利根川に合流している鬼怒川であるが、江戸時代初期の開削工事までは現在の香取辺りで太平洋に流入する独立水系であった。

 農耕だけでなく、結城は奈良時代からすでに養蚕が盛んで、絹布の一大産地であった。鬼怒川を流通路として関東は云うに及ばず、室町期の商業経済の萌芽(ほうが)と相俟(あいま)って、諸国に広がり、後世の「結城紬」の基となった。

 この豊かさが、結城氏の長い繁栄の根幹であり、氏朝の今回の決断の後ろ楯になったのかもしれない。

 結城の若殿である結城持朝は兵糧や武具の調達に多忙を極める毎日を送っていた。

 城兵凡そ一万人が一年間の籠城戦を戦い抜く為に必要な兵糧は、米だけでも一万八千石(約三百万リットル)である。幸いにも収穫後の如月(二月)、結城には有り余る程の米がある。 持朝の頭を悩ましていたのは武具、中でも矢の不足が深刻であった。刀剣と違い矢は消耗品であり、まして、接近戦になる野戦と違い、この度の戦は籠城戦である。矢数は勝敗の帰趨を決める。

 もちろん、武家の居城結城城だ。相応の矢数の備えはあるにはあるが、天下の兵を向こうにして援軍どころか補給路もままならない戦である。できるだけ長く籠城し、諸方の大名小名を調略し、一大勢力を築き上げる。唯一無二の結城が生き残る道であると持朝は考えている。

 そのためには城内の備蓄を最高域まで高めねばならない。

 関東中に放った乱波(らっぱ)共の報告では、関東管領上杉清方軍は鎌倉に集結、駿河守護今川範忠は駿府を発した。信濃守護小笠原政康は上州厩橋城(前橋)に入城した。来月には結城に乱入するは必定であった。

「者共急げ!矢竹を切り集めよ。敵はもう直ぐそこぞ」

 竹を刈る手を動かしながら呪文のように唱え続ける持朝に用人の丸安賀衛(まるやすよしえ)が、

「若殿、十人や二十人じゃ丸一日かけても埒があきませぬぞ。もっと人を掻き集めねば…」

「お前に云われずともわかっている。だが、皆、其々持ち場があって人が割けぬ。アッ、痛っ…、お前が余計な口を叩くで竹のささくれが指に刺さったではないか」

「ならば、百姓達を雇いましょう。ならば、千や二千はあっと云う間ですぞ」

「それは出来ん」

「何故でございますか」

 折角思いついた妙案を足下に否定された賀衛が不服気に持朝に振り返った。

「よいか、今にも敵が攻め寄せて来るかも知れないこの時、百姓を入城させられない。万が一の事態になれば来年の作柄に影響が出る」

「エッ…しかし…来年の作柄よりこの結城が生き残らなければ来年の作柄など意味がないのでは…」

 竹を切っていた手を止めた持朝が、

「皆の者もよく聞け」

 いつになく厳しい持朝の口調に他の郎党達も手を止め、片膝を着いてかしこまった。

「結城がなぜ十二代の長きに渡ってこの地に割拠しえたかわかるか?」

 各々顔を見合わせているばかりで答えは無かった。

「それはな…結城の地が繁栄し続けたからだ。なら結城の繁栄とは何か。結城は水利に恵まれ作物の実りもよく、古来より蚕を養い布を織り諸国に売り捌く。そんな民の不断の生業(なりわい)こそが結城の繁栄の源ぞ。我等結城一族はその根源の上に乗っておるのだ。もし万が一、此度の戦で結城氏が滅んだとしてもだ、結城の繁栄がある限り必ずや我等は再興できるのだ」

 畏まっていた郎党達は、地面に突っ伏して嗚咽を洩らす者、中には号泣する者もいた。


 今日刈取った矢竹を荷車に載せ郎党達が城に帰って行くのを見送りながら、持朝は明日刈取る竹林を思案していた。

 辺りは夕の赭と宵の墨が混然となり奇妙な安堵感を持朝に与えた。その安堵は、夕景に薄っすらと輪郭を浮かべる結城城が、すでに実体のない幻影に見える程甘美な安堵だった。〈だめだ、だめだ…、次期当主の俺が弱気になってどうする。さっきの能書きはなんだったんだ。しっかりせい、七郎…〉

 己を叱咤した持朝は、薄暮の中に皓い影があるのに気づいた。その影はゆっくりとこちらに近づいてくる。

「このようなところでお独りとは少々不用心ですよ。若殿」

 藍白の水干を身に纏い、芦毛に騎乗した春王が笑って云った。湯浅五郎を伴にし馬上に手綱を締める春王は、もはや源氏の若武者の気品があった。

 春王の佇まいは、貴種のそれであり、一朝一夕に身につくものではないと持朝は感じ入った。

「御曹司こそ不用心な。結城領内ならまず安心とは思うが、管領方の刺客が潜んでいるかもしれない」

「拙者が早駆けの稽古にお誘いしたのだ。勝手に城外に出たのは私の無分別、誠に相済まぬ」

 すぐさま五郎が云った。

「何を云う。私が無理を云い早駆けの稽古に誘い出したのです。五郎は悪くはない」

 二人とも思い詰めた口調でお互いを庇い合う。

 庇い合う春王と五郎主従は、実の兄弟のようであった。鎌倉を逃亡して以来、主従の垣根を超え兄弟のようにして辛酸を耐え忍んだのだろう。

「あいや、これはこまったな。私は咎めているのではない。お二人して謝られては私も立つ瀬がないわ。アハハ…こまったな…御曹司も五郎殿も笑ってくれよ」

 「フッ、フフ、アハ、アハハ…若殿の仰せじゃ、五郎!笑え笑え」

 十三歳の子供の屈託の無さで春王が笑う。常に能面の如き五郎さえも破顔していく。

「ところで、先程の若殿のお言葉には感じ入りました。若殿を領主に仰げるとは結城の民は果報者ですね」

 春王は芦毛から降り、首紐を五郎に預けた。

「聞いておられたのか、いやお恥ずかしい」

「恥ずかしいのは我等足利一門です。京の将軍家も鎌倉公方家も権力に固執した結果、畿内も関東、いや、全国津々浦々まで戦乱を広げてしまった。もし、私が生き残れたならば、この国を…無理ならば、せめてこの関東だけでも戦のない地にしたいものです。その時は必ずやご助力下さいませ。どうか何卒、持朝殿」

 持朝を見上げる春王の両の眼から涙が伝い流れた。

 戦乱の中で木葉のように流されて行く我が身の不甲斐なさなのか、それとも、関東を統べる責務有る家に生まれながら責務を全うできない不甲斐なさの表れなのか…

 戦乱の時代、権謀術数にのみに明け暮れる為政者が、とうに忘れてしまっている真っ直ぐなもの「高貴さは義務を強制する」を春王の涙に見た気がした。

「春王殿、われら生まれ育ちは違えども、死するは同じ時、同じ場所。この竹林で誓いし限りは七生の友垣(ともがき)ぞ。爾(なんじ)が劉備玄徳たりえば、我、結城持朝は関羽雲長ならん」

 これまで主君を持つなど露ほども考えてなかった持朝だったが、春王が主君ならば死に甲斐もあるなと思えた。

「御曹司、男子が人前で涙など見せてはなりませぬ。それに持朝殿、あと一人足りませぬ」

 五郎がボソリと云う。

 涙を水干の袖で無造作に拭い、高らかに春王は言い放った。

張飛翼徳は、もちろん五郎おまえだよ」


次回ヘ続く


※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。

 読者諸兄には何卒ご了承くださいませ

 もし良かったら次回もお読み下されば嬉しく思います。